フ法律に準拠して番人《ドア・マン》が案内し、労農政府の法律に準拠して哀訴嘆願の末ひとつの部屋を貰う。すべてが労農政府の法律に準拠して動くのだ。もし法律が足らなければいくらでも拵《こしら》える。こしらえると言ったって法律や組合は金がかからないからどんどん産業的に多量製産している。このホテルだって全露移動人民宿泊便宜組合|莫斯科《モスコウ》支部第何区所属で、略称セレクトフスカヤとか何とかいう実はお役所の一種に相違あるまい。無産の料理を与えられて、無産のお湯へはいり、無産の寝台に寝る。どうせいままで「略取」されて来たと信ずる「階級」の仕事だから、今度はさかんに「略取」する。無産の室代《へやだい》八|留《ルーブル》。無産の牛酪《バタ》一|片《きれ》――厚さ二分弱一寸四方――五十|哥《カペイカ》――牛乳――とよりも些《いさ》さか牛乳に似た冷水――が一合日本の二十四銭。チョコレイト――わが国において金五十銭ぐらいのもの――が約八円。女の靴最低四十|留《ルウブル》より。
第一日の印象。そ※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]ぃえと・ろしあに多すぎる物、議論。すくな過ぎるもの、麺麭《パン》。
第二日。モスコウのあけ方は眼を射るように美しい。新寺院――これはどこからでも見える――をはじめ寺々の尖塔が金に銀に青に光って、金と銀と青を溶かした陽線が室内の大鏡に反映する。そうすると平凡な国の平凡な朝ぼらけと同じに鶏と赤ん坊が泣いて、巷の騒音が油然《ゆうぜん》と唸り出すのだ。広場へでると煙草と果物の露店が並んでいる。巻煙草はべらぼうに吸口が長い。露西亜《ロシア》人は冬|外套《シュウバ》の襟を立てるのでそのために特にこう出来てるんだそうだが、私の考えでは、これは例の過激派|鬚《ひげ》を焼かない用心だと思う。そのほか靴墨やら野菜やらぼたん[#「ぼたん」に傍点]やら皮帯なんかも大道で売ってる。これらの店は儲けがほそいのでこうして個人にも許しているのだ。大通りの商店――その多くは空っぽであり、ほとんど一軒おきにあき家だが――はみんな言うまでもなく国営で、売子も番頭もここではお役人である。だから歯みがき一つ買うにも、まず政府へ願書を差し立て、何が故に歯磨きに興味を感ずるか、年齢《とし》は幾つか、既婚か未婚か既婚ならば妻もしくは夫の人物・性行・嗜好の一般、家族は何人か――各写真一葉添附のこと――共産党政府に異心なきことの証明。それに生年月日と署名、そして、もちろんほかに七人の保証人を必要とする。髪を刈るにも芝居を見るにもこの手続きを踏まなければならない――なに、ただそれほどぎごち[#「ぎごち」に傍点]ない感じのする「労働者の天地」だといいたいだけだ。と言ったところで、個人経営の商店もあるにはある。が、許可を得るのが難しいうえに税が高く、第一その筋を商売がたきに廻してやって往けるわけがない。だから微々として振わず片っぱしからつぶれちまう。ちょうど私有財産もまんざら認めないではない、六十万|留《ルーブル》までは立派にゆるしているんだが、四十万の相続税を取るといったように――。
きょうは滞在許可を受けに、旅券と写真と金を持ってホテルの男に伴《つ》れられて莫斯科庁《モツサヴェイト》へ出頭におよぶ。やたらに速力を出して自動車を飛ばしてゆくと、田舎の中学みたいな建物のまえへ出た。それがモスコウ・ソヴェイトの政庁だった。庭をまわって人事課旅券係といったような別棟へ顔を出す。いかに政府が人のうごきを気にして監視しているかが窺われるほど、ここは不安げな群衆でいっぱいだ。めいめい書類のようなものを持ってうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している。列を作って順番を待つんだが、私は日本人だから――だろうと思うが――特別にさきにやってくれた。第一の机から第二の机、第三第四と引きまわされる。どこの机に控えているのも子供みたいな若い男か女ばかりだ。ばかにつんけん[#「つんけん」に傍点]威張っている。女は、べらべらの長着《フロック》をだらしなく引っかけて乳まで見えそうなのが紙巻をくわえながら判をついていたり、女工のようなのが人民を訊問していたり、裏店《うらだな》のおかみ然たるのが願書の不備を指摘して突っ返したり、これがみんなお役人なんだから何とも奇抜な光景である。ウクライナのお百姓が韃靼《だったん》人に、「ちょっくらものを伺いますだが」をやったり、その韃靼人が首を振ってにやにや笑ったり――私のところへも仏蘭西《フランス》語で何か訊《き》きにきたやつがある。首をふってにやにや[#「にやにや」に傍点]笑ってやる。
『お前は何のためにモスコウで降りたのか。』
私の前の女中《ニウラ》のような十八、九の女が威丈高《いたけだか》に声をかける。
『芝居を見に。』
ホテルの男が代弁する。心得たものだ。こ
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