サうだけれど、その埃《ほこり》だらけなのに怖毛《おじけ》をふるって、私達はとうとう手が出なかった。この山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]子売りはハルビン街上風景の一主要人物である。黄塵《こうじん》万丈の風に乗って、泣くようなその売り声が町の角々から漂ってくるとき、人は「哈爾賓《ハルビン》らしさ」の核心に触れる。
三十分おきにどっちかの発議で、私たちはお茶を飲んでいる。露西亜|茶《チャイ》だ。気候のせいかみんなよくこの茶《チャイ》をのむ。個人の家ばかりかどこの事務所でも、時間をきめて洋杯《コップ》になみなみと注《つ》いだのへレモンと砂糖を添えて持ってくるが、身体《からだ》が要求するのだろう、さして美味《おい》しくもないのに、咽喉《のど》がひりひりして飲まずにはいられない。が、お茶だけでも仕様がないから、勇を鼓して階下の食堂へ降りてみると、いたずらに広い卓子《テーブル》のあいだに給仕人の襯衣《シャツ》の胸が白くちらほら[#「ちらほら」に傍点]光って、運命開拓者のあめりか人が赤い耳輪の売春婦と酒を飲んでいるきり、オウケストラのウォルツが寒々しくあふれている。そのうちに、中年の露西亜《ロシア》婦人が子供を伴《つ》れて這入《はい》ってきた。東京にいるT露西亜大使の夫人だそうだ。それはいいが、ここはハルビンでも料理のいいほうだというけれど、その食物の猛悪なのには降参せざるを得ない。第一に、ボリシチとか号するスウプに類したものには油が玉のように浮んで、二きれの偉大な肉が煩悶の極|唸《うな》り声を上げている。つぎなるザクシカというのは、早く言えば、若くして悶死した魚の腐肉だ。そのほかガグリシチにしろペテロシュカにしろギザルシカにしろ凡《すべ》て大同小異である。やたらに量が多いばかりでとても口にする気になれない。もっともカトレイタだのビフシュテイキなんかと称して西欧めいたのもあるにはあるが、ガグリシチやペテロシュカの惨状を一見しただけで、他を試みる必要のないほど料理人の腕はわかる。で、色電灯と散乱する音譜とウンテルベルゲル氏の職業用微笑にいくらかの大洋《タイヤン》を献じたのち、私達は空腹と連れ立って食堂をあとにした。ただビイフシュトロウゲンという奇怪な一皿と、ブルンビアなるアイスクリイムに厚化粧をほどこしたようなデザアトだけは、いささか人類の食に適することをウンテルベルゲ
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