去≠フ名誉のためにつけ足しておこう。
ホテルを出た私たちをタキシのむれと宵闇が待ちかまえていた。そのタキシを駆ってその宵闇のなかを東支倶楽部へいそぐ。トルトウスカヤ女史のひきいる露西亜《ロシア》舞踊団の公演を見ようというのだ。
倶楽部の演芸場にも「世が世ならば」の群集があふれて、赤を呪う白の人々と、支那政府の眼をくぐって白の動きを見守る赤の密偵と、赤系と白系が縒《よ》りまざってまるで理髪屋の標柱のような哈爾賓《ハルビン》の社会相が、ここにそのままの縮図を見せているのだった。何というもの淋しい「過去と未来を同時に呼吸する群」であろう! いまだにニコライ・ロマノフの写真を飾って上帝に十字を切る一団、北東の秘密活動本部をここへおく第三国際の宣伝員、すべての主義と世の動きとをよそに在りし日を夢みる階級――それらの露西亜人とその家族たちが、しばらく政治と闘争と謀策を中止して一夜の受楽のためにこうして集《あつま》っているのだ。これでも大きな社交的出来事《ソシアル・オケイジョン》のひとつとみえて、タキシイドの男と粗末なデコルテがあちこちに見受けられるが、無理にも場合を作って明るい宵を持とうとする彼等の努力に、泪《なみだ》ぐましい泣笑いがひそんでいる。じっさいこの町に住む露西亜人は、片っぱしから「槍《やり》は錆《さ》びても」の心意気なのだ。だから、莫大な体躯といかめしい鬚《ひげ》と灰色の眼とをもつ格蘭得火太立《グランド・ホテル》旅館の老小使《ポウタア》ミシェルは、むかし国境防備軍団の旅団長として皇帝と同じ食卓で茶を喫《の》んだ記憶を秘蔵し、ボルシチの料理人は革命当時にバイカル湖を泳いで逃げた大銀行家のなれの果てだし、路傍に燐寸《マッチ》を売る老婆という老婆は、すべて王女かもしくは宮廷の侍女であったに相違ない。こうして大山鉱業者は街角に靴をみがき、大将軍は貨物自動車を運転し、大僧正が倉庫の番人をつとめているわけで、陸軍中将の御者、大公爵の番頭、帝室歌劇団花形の売子、すべて由緒ある亡命者をもってハルビンは充満している。これらの白い波に、いま欧亜主義《ユウロパシフィック》なる一つの反動思想、ソヴィエト制度をピイタア大帝以前の露西亜《ロシア》本来のものとして肯定して、一ぽう共産党現政府を乗っ取ろうとする運動が、全世界にちらばる白系露人と呼応して起りつつあると聞くが、そうかと思うと、じぶ
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