hイツ》人ウンテルベルゲル氏が経営して自ら給仕長として立ち、いっぽんの生胡瓜《オグレツ》に大洋《タイヤン》の一円五十銭をとり、定食《アベイト》には、卓上電灯を半暗にして不可思議な舞踏交響楽がはじまり、帳場《デスク》の露西亜番頭《ロシアクラアク》はたくさんの支那語とすこしの英語とすこしの独逸語と少しの仏蘭西《フランス》語と、それにすこしの日本語とを話し、浅黄色のわんぴいす[#「わんぴいす」に傍点]を着て頭髪を角刈りにした不柔順な支那ボウイの一隊と、慈善病院の看護婦みたいな不潔な露西亜《ロシア》女中の大軍とを擁し――以下略――とさえ言えば、いかに「哈爾賓《ハルビン》」な、あまりにハルビンな火太立《ホテル》であるかが充分以上に描出されたことになろう。
 窓|硝子《ガラス》をとおしてまだぼんやりと前の通りを見下ろしていた私は、吹きまくる蒙古風といっしょに奇妙な呼び声が揺れ上ってくるのに気がついた。声は、黄色く暮れてゆく街上をだんだん近づいて来る。
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ちいやらまた
たんぐうろえ
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 また暫《しば》らく間をおいて、
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ちやらまた
たんぐろえ
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 私は上半身を乗り出して真下の歩道を覗《のぞ》いた。巌畳《がんじょう》な支那の中年男が、酸漿《ほおずき》のしぼんだようなものを何本となく藁束《わらたば》に刺したのを肩へ担いで、欠伸《あくび》みたいに大きくゆっくり口を開けるたんびに、円い太い声が、心もち震《ふる》えて長閑《のどか》に吐き出されるのだ。
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あああう――あ!
ちい――やらまた
たあ――んぐろえ
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 山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]子《さんざし》という木の実である。それを乾して赤く着色したのを、子供の駄菓子として売り歩いているのだが、七、八つ刺した串が一本|大洋《タイヤン》の一銭とかで、終日砂ほこりにさらされて真っ白になっているのを、売れても売れなくても一向平気に、彼は呶鳴《どな》ることそれ自身に生甲斐《いきがい》を感じているらしく、私の眼下でもう一度「ちいやらまた」を叫んだのちぶらり[#「ぶらり」に傍点]と通りすぎていった。山※[#「木+査」、第3水準1−85−84]子の実は甘酸《あまず》っぱい味がして、左程《さほど》まずくもない
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