かり夜の景色。下手から話し声がして、劉東夏を仲に安重根と禹徳淳が出て来る。
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劉東夏 (自宅を指して)ここです。ちょっと待っていて下さい。
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家へはいろうとする。
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禹徳淳 (追い止めて)君、大丈夫か。一人でお父さんをうんと言わせられる自信があるのか。
安重根 独立党の仕事で、僕らと一緒に行くなどと言ってはいけないぜ。
劉東夏 (英雄に対するごとく、安重根へ)そんなこと言やしません。私はしじゅう父の命令《いいつけ》でハルビンへ薬を買いに行くんです。今度もその用で、二三日中に行くことになっているんですから、急に思い立って今夜これから発つと言っても、父は何とも言いはしません。
禹徳淳 (安重根へ)だが、今日この劉東夏君に会ってよかったな。僕も君も、露語と来るとまるきり駄目だからなあ。そこへ、ロシア人よりも露語の達者な劉君が一緒に行ってくれると言うんだから、まったく心強いよ。
安重根 いや、おれは劉君のことは以前から聞いていた。いつかウラジオの李剛先生が雑談的に話したことがある。ポグラニチナヤに劉東夏という、若いがロシア語の上手な人がいる。露領の奥へ出かけるようなことがあったら、その人を通訳に頼みたまえ――僕はそれを思い出して、ぜひ劉君に会って頼むつもりでいたんだ。このポグラニチナヤに途中下車したのも、劉君に同行してもらうためだったのさ。
禹徳淳 (劉東夏へ)ハルビンの用は大したことじゃあないんだ。では、これからすぐ薬を買いにハルビンへ行くと言って、ぜひお父さんの許可を得るんだな。僕と安君は一足先に停車場へ行って待っている。
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劉東夏は家に入る。
安重根と禹徳淳は急ぎ下手へ歩き出す。
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禹徳淳 あいつのロシア語は手に入ったものだ。それにかなり党の仕事にも熱心だし、情報を集めたりなんか、連絡係りには持って来いだが、君はどの程度まで打ち明けるつもりでいるんだい。
安重根 何と言ってもまだ少年《こども》だからねえ。そのうちにうすうす感づくのは仕方がないが、何も知らせないほうがいいだろう。汽車の切符を買ったり、道を訊いたりするのに使うんだね。
禹徳淳 (突然立ち停まって安重根の腕を握り、下手を覗く)君! 柳さんじゃないか。そうだ。柳麗玉さんだ。
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二人が下手に眼を凝らしつつ古着屋の前の電柱の陰へ隠れる時、柳麗玉が現れる。ウラジオから今着いたところで旅に疲れた様子。一尺四方程の箱包を糸で縛って抱えて、家を探す態で軒並みに見上げながら、不安げに歩いて来る。
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安重根 (やり過しておいて)柳さん!―― やっぱり君だったか。
柳麗玉 あら! 安さん。よかったわ。まあ、徳淳さんも――。
安重根 (嬉しそうに柳麗玉の肩へ手を置こうとし、自制して後退りする)何しに来たんだ。何しに君はこんなところへ来たんです。(不機嫌に)僕らの今度の目的は、君も知っているはずだ。
柳麗玉 (いそいそと)ああよかった。後を追っかけて来たんですわ。夢中でしたわ。でも、ここでお眼にかかれて、ほんとに――。
禹徳淳 (苦々し気に)とうしたんです。柳さんはよく理解して、あの朝、ウラジオの停車場で気持ちよく見送ってくれたじゃないですか。
柳麗玉 (安重根へ)すぐつぎの汽車でウラジオを発って、今着いたところですの。李剛先生が、きっとこのポグラニチナヤの劉任瞻というお薬屋に寄っているだろうとおっしゃって――。
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安重根と禹徳淳は顔を見合わせる。
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柳麗玉 (にこにこして)忘れ物をなすったんですってね。あたし李剛先生に頼まれて、その忘れものを届けにまいりましたのよ。
禹徳淳 忘れ物――って何だろう。
柳麗玉 (紙包みを出して)何ですかあたしも知らないんですけれど――あなが方がお発ちになったすぐ後、李剛先生があたしを呼んで、二人が大変な忘れ物をして行った。非常に大切な物だ。ないと困る品だ。安さんは必ずポグラニチナヤに途中下車して、まだそこの劉任瞻という薬屋にいるだろうから、あたしに後を追って渡すようにと言うんでしょう。大あわてにあわててつぎの汽車に乗ったんですの。
禹徳淳 どうして先生は、おれたちがここへ寄ったことを知ってるんだろう。
安重根 (笑って)そら、さっき話したじゃないか。いつか李剛さんが何気なく、ここの劉東夏の噂をしたことがあるって。あの人の言動は、その時は無意味に響いても、後から考えるといちいち糸を引いているんだ。わかってるじゃないか。その時分から僕に東夏を使わせる計画だったんだよ。(柳麗玉へ)いや、ありがとう。御苦労。開けてみよう。
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包みを受け取って地面にしゃがみ、ひらく。紙箱が出る。
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禹徳淳 (覗き込んで)何だい、ばかに厳重に包んであるじゃないか。
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安重根は無言で箱の覆を取る。拳銃が二個はいっている。
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安重根 (ぎょっとして覆をする。静かに柳麗玉を見上げる)李剛さんが、僕らがこれを忘れて行ったと言ったって?
柳麗玉 あら! (素早く箱の中を見て)ええ。ですけれど、あたし、そんな物がはいっているとは知らずに――。
安重根 そして李先生は、これを僕らに届けるために君を走らせた――。
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と再び箱を開けて、禹徳淳に示す。二人は黙って顔を見合う。間。
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安重根 (苦笑)二挺ある。何方でも採りたまえ。
禹徳淳 ははははは、まるで決闘だな。しかし、李剛主筆の深謀遠慮には、いつものことながら降参するよ。
安重根 (拳銃の一つを取り上げて灯にすかして見ながら)スミット・ウェトソン式だ。十字架が彫ってある。六連発だな。この銃身のところに何か書いてあるぞ。(横にして読む)――コレアン・トマス。
禹徳淳 朝鮮人《コレアン》トマス? 面白い。それを君の名前にするか。
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二人はじっとめいめいの拳銃に見入っている。手風琴と唄声が聞こえて来る。
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柳麗玉 (決然と)面白くなって来たわね。あたしだって働けるわ。ね、安さん、いっしょにハルビンに行くわ。
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安重根は二挺の拳銃を箱に納めて、手早く元通りに包んでいる。
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禹徳淳 そうだ。女づれだと、かえって警戒線を突破するのに便利かもしれないな。
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夕刊売りの少年が上手から駈けて来る。
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夕刊売り 夕刊! 夕刊! ハルビンウェストニック夕刊!
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三人の様子に好奇気《ものずきげ》に立ち停まる。禹徳淳が夕刊を買って下手へ追いやる。
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禹徳淳 (新聞を拡げて、大声に)おい、出てるぞ。(紙面の一個所を叩いて安重根に示す)何だ?――「東清鉄道の事業拡張に関する自家の意見を確定するため極東巡視の途に上りたるココフツォフ蔵相は、二十一日ハルビン到着の予定。なお北京駐在露国公使コロストウェツの特に任地より来あわせる等の事実より推測すれば、時を同じゅうして来遊の噂ある伊藤公爵とわが蔵相との会見は、なんらか他に重大なる使命を秘するもののごとく想像に難からずと、某消息通は語れり。」――まだある。この後が大変なんだ。(活気づいて高声に読み続ける)「因に東清鉄道会社は、翌二十二日のため長春ハルビン間に特別列車を用意したり。」どうだい、こいつあ愉快なニュースだ。いよいよこうしちゃあいられない――。
柳麗玉 (勢い込んで、安重根へ)あたし其包《それ》持ってくわ。
安重根 いや、いかん。君はウラジオへ帰れ。帰って、李剛先生に礼を言ってくれ。忘れ物を届けてやったら、安重根は大喜びだったと。(禹徳淳へ)事務的に、ココフツォフの動きにさえ注意していたら、間違いなく、伊藤は向うからわれわれのふところへ飛び込んで来るよ。長春からハルビンまでの特別列車? 二十二日だって?
禹徳淳 (紙面を白眼んで)うむ。逢いたりな逢いたりな、ついに伊藤に逢いたりな――。
安重根 二日早くなったな。曹道先は知ってるんだろうな。
禹徳淳 無論すっかり手配して待ってるとも。おい、もう劉東夏が出て来るころだ。停車場へ行っていよう。
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安重根は拳銃の包みを抱えて、禹徳淳とともに急ぎ下手へ入る。柳麗玉は勇ましげに見送ったのち、気がついて後を追う。薬屋の店から劉父子が出て来る。劉東夏は旅行の仕度をしている。
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劉任瞻 (戸口に立ち停まって)用が済んだらすぐ帰るんだぞ。ハルビンは若い者の長くおるところじゃない。
劉東夏 (気が急いて)え。すぐ帰ります。じゃ、行ってまいります。
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走り去る。
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       11[#「11」は縦中横]

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十月二十三日、夜中。ハルビン埠頭区レスナヤ街、曹道先洗濯店。

屋上の物乾し台。屋根の上に木を渡して設えたる相当広き物乾し。丸太、竹の類を架けて、取り込み残した洗濯物が二三、夜露に湿って下っている。下は、いっぱいに近隣の屋根。物乾し場の下手向う隅に昇降口、屋根を伝わって梯子あり。遠く近く家々の窓の灯が消えて往く。一面の星空、半闇。

曹道先――洗濯屋の主人。情を知って安重根のために働いている。四十歳前後。カラーなしで古い背広服を着ている。
ニイナ・ラファロヴナ――曹道先妻、若きロシア婦人。
金成白――近所の朝鮮雑貨商。安重根の個人的知人。朝鮮服。三十歳ぐらい。

他に安重根、禹徳淳、柳麗玉、劉東夏。

物乾し台の一隅に安重根と柳麗玉がめいめい毛布をかぶって、肩を押し合ってしゃがんでいる。長いことそうして話しこんでいる様子。足許にカンテラを一つ置き、一条の光りが横に長く倒れている。
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安重根 (露地や往来が気になるごとく、凭りかかっている手摺りからしきりに下を覗きながら)だからさ、僕が伊藤を殺《や》っつける――とすると、それはあくまで僕自身の選択でやるんだ。同志などという弥次馬連中に唆《そその》かされたんでもなければ、それかと言って、禹徳淳のように、例えば今日伊藤を殺しさえすれば、同時にすべての屈辱が雪がれて、明日にも韓国が独立して、皆の生活がよくなり、自分の煙草の行商もおおいに売行きが増すだろうなどと――(笑う)実際徳淳は、心からそう信じきっているんだからねえ。だが、僕は、不幸にも、あの男ほど単純ではないんだ。
柳麗玉 (寄り添って)そりゃそうだわ。徳淳さんなんかと、較べものにならないわ。
安重根 (独語)ほんとうに心の底を叩いてみると、おれはなぜ伊藤を殺そうとしているのかわからなくなったよ。
柳麗玉 (びっくりして離れる)まあ、安さん! あなた何をおっしゃるの――?
安重根 ここまで来て、伊藤を殺さなければならない理由が解らなくなってしまった――。(自嘲的に)祖国の恨みを霽らして独立を計るため――ふふん、第一、国家より先に、まずこの安重根という存在を考えてみる。(ゆっくりと)ところで、おれ個人として、伊藤を殺して何の得るところがあるんだ。
柳麗玉 (熱心に縋りついて)どうしたのよ、安さん! 今にな
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