で舞台一面に争う。禹徳淳、白基竜、黄成鎬ら台所のドアを守る。ついにドアが開かれて、電燈の暗い台所、ドアのすぐ向側に、安重根を庇って柳麗玉が立っているのがちらと見える。朴鳳錫を先頭に同志一、二、青年C、E、J、K、L等一団に雪崩れ込んで行く。
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       9

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もとの台所。
第七場の続き。安重根は外套を着て歩き廻り、柳麗玉は尊敬を罩《こ》めて見惚れている。多勢の合唱が隣室から聞えている。
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安重根 (快活に)ルバシカの上から背広を着て、おまけにこのロシア人の大きな外套――とくると、考えものだぞ。日本人には見られないかもしれない。
柳麗玉 (一緒に考えて)今日お買いになったのね。この洋服や何か――でも、変装のことなんか、李剛先生は何ておっしゃって?
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「国民たる義務を尽さずして、無為平安に坐せんには――。」禹徳淳の繰返しがはっきり聞えてくる。
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安重根 (それを耳に傾けながら)日本人に見られないとすると、時節柄、怪しまれるにきまっている――。李剛先生?(苦笑)先生か。先生は、無論、暗殺そのものに反対さ。
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跫音人声など突如隣室の騒ぎが激しくなり、境の扉へぶつかる音がする。
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柳麗玉 (隣室に注意して不安げに起つ)安さん! 何でしょう――。
安重根 (熱して)正直のところ、僕は李剛さんを恨んでいる! 憎んでいる! いつだって、ああやって冷静に構えて反対しながら、その反対することによって僕を煽って、僕を使ってあいつを殺させようとしているんだ。解っている。ははは、わかっているよ。
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隣室の騒擾が高まって、ドアが開かれそうになる。柳麗玉はドアへ走って背中で押し止めようとする。
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柳麗玉 安さん!
安重根 (無関心に)あの人にとって、僕という存在は一個の暗殺用凶器にすぎない。僕にはそれがよくわかる。(力なく)わかっていてどうすることもできないのが、僕は、この自分が、自分であって自分でないような――。(狂的に叫ぶ)あの人に会うと、いつもそうだ。口では極力止めながら、眼では、伊藤を殺せ! 伊藤を殺せ! と僕を――(爆笑)はっはっはっは、なるようになるさ。
柳麗玉 (必死にドアを押えながら)早く外套を脱いで、行李を――。
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安重根が気がついて帽子と外套をとり、卓上の衣類を行李に入れ終った時、ドアがあく。柳麗玉は安重根をかばって立つ。朴鳳錫を先頭に同志一、二、青年ら一団になだれ込んでくる。正面の廊下から黄瑞露がはいって来ておろおろしている。
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朴鳳錫 (柳麗玉を押し退けて)安重根! 貴様は――。
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腕を振り上げて迫る。「燈を消せ!」と誰かが叫んで素早く電燈を消す。隣室から、開け放したドアの幅に光線が流れ込んでいるきり、舞台は暗黒。一同「スパイの畜生!」、「弁解を聞く必要はないっ!」、「今日の行動で明かだ。」、「さんざん俺たちを翻弄したな。」、「やっつけちまえ!」喚声を上げて包囲し、揉み合う。青年らは続々隣室から走り込んで来る。禹徳淳、白基竜、黄成鎬は渦中に割りこんで大声に怒鳴り、手を振り、鎮撫しようと努める。
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柳麗玉 (朴鳳錫を止めて)何をするの? 静かに話してわからないことなの?
背年C その女も食わせ物だぞ。一緒に殴《や》っちまえ。
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口ぐちに呼ぶ。すべてが瞬間だ――。混雑のうちに朴鳳錫が安重根を殴る。続いて多勢で罵りながら、床《ゆか》に倒れた安重根を袋叩きにする。柳麗玉は下手の裏口を開けて戸外へ駈け出る。禹徳淳、白基竜、黄成鎬、黄瑞露らは安重根を助けようとして八方停める、押し合う。椅子卓子が倒れ、皿小鉢は落ち、舞台一面に乱闘の観を呈する。
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柳麗玉 (出て行って間もなく裏口から慌しく駈け込んでくる)憲兵ですよ! 憲兵ですよ!
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露国憲兵五六人、佩剣を鳴らして裏口から走りこんでくる。
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憲兵一 (大喝)何かあ、夜中に。
憲兵二 静かにしろっ! 騒ぐとぶっ放すぞ!
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天井へ向けて二三発拳銃の空砲を放つ。一同は安重根、禹徳淳、白基竜、黄成鎬夫妻、柳麗玉を残し先を争って戸外へ逃げ去る。憲兵出現と同時に、黄成鎬は逸早く懐中からトランプを取り出して床に撒き散らしている。
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憲兵二 空砲だ。空砲だ。あわてるな。
憲兵三 燈《ひ》を点《つ》けろ、燈を!
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点燈。青年らすべて退散したる明るい舞台に、家具食器など散乱し、格闘の跡。中央に安重根が俯臥して、柳麗玉はひざまずいて労わり、他はあるいは安重根の傍に、あるいは壁ぎわに狼狽して立っている。床一面にトランプが散らばり、裏口に寝巻姿の近所の男女数名が驚いた顔を覗かせている。
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憲兵上官 (黄成鎬へ進んで)貴様か、ここの主人は。何だこの騒ぎは。どうしたんだ。
黄成鎬 はい。まことにどうも申訳ございません。いんちき札を使ったとか使わねえとか、下らねえことから、何分その、気の早え野郎が揃っておりますんで、へえ。
上官 何? 博奕の喧嘩か。
黄成鎬 へへへへ、なに、ちょいと悪戯《わるさ》をしておりましたんで。お手数をかけまして、なんとも早や――。
憲兵四 (上官へ)自分は知っておるであります。ここは有名な朝鮮人の博奕宿であります。
上官 ほほう、君もちょいちょい来ると見えるね。
憲兵四 違うであります。自分は――。
上官 黙っておれ! (倒れている安重根を軽く蹴りながら)こいつは死んでいるのか。
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と黄成鎬を見て、ひそかに右手の拇指と人指指を擦り合わせて示す。眼こぼし料を要求する意。黄成鎬は手早く紙幣を取り出して、近づく。
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黄成鎬 (安重根を覗いて)へへへへへ、なに、ちょいと眠ってるだけでございますよ、眠ってるだけで。
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自然らしく上官の傍を通る拍子に、そっとそのポケットへ紙幣を押し込む、憲兵ら一斉に咳払いをする。
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憲兵上官 うう、そうか。眠っているのか。眼が覚めたら介抱してやれ。(部下へ)引上げだ。
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禹徳淳、白基竜ら一同博徒らしく装い小腰を屈めるなかを、憲兵裏口より退場。近所の人々は逃げて道を開き、すぐまた覗きに集まる。柳麗玉は安重根を抱き起している。
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安重根 (泪に濡れた笑顔)ははははは、大丈夫、起てるよ。(禹徳淳を認めて)おう! 徳淳――!
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よろめいて禹徳淳の手を握る。一同呆然と見守っている。
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安重根 (力強く)夜が明けたな。(裏口のそとに空が白んで、暁の色が流れ込んでいる)汽車の時間は、調べてあるのか。
禹徳淳 (手を握り返して急《せ》き込む)行ってくれるか。ハルビンへ行ってくれるか。
安重根 (哄笑)はっはっは、心配するな。(柳麗玉に支えられながら)旅費はあるぞ旅費は。はっはっは、たんまりあるぞ。
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黄瑞露は裏口の人を追って戸を閉めている。
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       10[#「10」は縦中横]

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ポグラニチナヤの裏町、不潔な洋風街路、劉任瞻韓薬房前。

十月十九日、夕ぐれ。

「韓国調剤学士劉任瞻薬房」と看板を掲げた、古びた間口の狭い店。草根木皮の類が軒下に下がって、硝子壜にはいった木の実、蛇の酒精漬けなど店頭《みせ》の戸外《そと》に並んでいる。左右は古着屋、乾物商などすべて朝鮮人相手の小商店。荷車、自転車など置いてあって雑然としている。低い家並みの向うは連山と、市街の屋根の重なる上に白い夕月。教会の尖塔がくっきり見えて、凹凸の石畳の下手に電柱が一本よろけている。

劉任瞻――医師兼薬剤師。老人、ロシアの農民風の服装。
劉東夏――その息子。十八歳。ルバシカに露兵の軍帽をかぶっている。
安重根、禹徳淳、柳麗玉、隣家の古着屋の老婆、ロシア人、支那人、朝鮮人等の男女の通行人。

夕闇の迫る騒がしい往来。店の前の椅子に劉任瞻が腰かけて、小笊《こざる》[#「小笊《こざる》」は底本では「小※[#「竹かんむり/瓜」、314−上−1]《こざる》」]に盛った穀物を両手に揉んでは、笊を揺すって籾殻《もみがら》を吹いている。ロシア人の裸足の子供の一隊、市場へ買出しに行った朝鮮人の女房二三、工場帰りの支那人職工の群などあわただしく通る。劉任瞻に挨拶して行く者もある。ロシア人の巡邏が長剣を鳴らして通り過ぎる。手風琴に合わして朝鮮唄の哀調が漂って来る。隣家の古着屋の老婆が、洋燈《ランプ》のほや[#「ほや」に傍点]を掃除しながら、店先いっぱいに古着の下がった間から顔を出す。
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老婆 劉さんかね。もうランプを点《つ》けなさいよ。東夏さんはいないのかえ。
劉任瞻 馬鹿な野郎だ。先刻まだ早いうちに、また独立党の会があるとか言ってな、出かけて行ったきり帰らないのだ。帰って来たらどなりつけてやろうと思って、ここに出張って待っているのさ。
老婆 おや、それじゃあきっと自家《うち》の若い人たちと一緒ですよ。安重根とかいう人が来たと言って、商売をおっぽり出して駈け出して行きましたから。
劉任瞻 困ったものだ。わしはいつも東夏に言って聞かせているのだが、職業や勉強を蔑《ないがしろ》にして何が国家だ。何が社会だ。独立が聞いて呆れる。ちっとやそっとの人間が騒いだところで、世の中はどう変るものでもないのだよ。長い間生きて来て、わしや古着屋のお婆さんが一番よく知っているはずだ。なあ、お婆さん。
老婆 そうですともさ。
劉任瞻 世の中は理窟ではない。いや、たった一つ理窟があるとすれば、それは、強い者が勝ち、弱いものが負けるという理窟だけだ。強い者は勝って得をし、弱いやつは負けて損をする。しかし、その強い者もいつまでも強いというわけではなし、弱いものもやがては強くなる時があろう。上が下になり、下が上になるのだ。こうして世の中は、大きく浪を打って進んで行くので、百万陀羅議論を唱えても、どうなるというものではない。待つのだ。強い者が弱くなり、弱い者が強くなる時を待つのだ。ははははは、じっと待つのだよ。待ちさえすれば、その時機は必ず来る――。
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反対隣りの乾物屋に灯が点く。手風琴と唄声は消えようとして続いている。間。
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老婆 そんなものでしょうねえ、ほんとに。(下手を見て)おや、誰か来ましたよ。うちの人たちかもしれない。どれ、ランプに灯を入れておこう。
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と古着屋に入る。
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劉任瞻 東は東、西は西。若い者は若い者、年寄りは年寄りだ。
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劉任瞻は穀物の笊を片附け、椅子を引きずって家へはいる。すぐその店と古着屋から灯りがさす。街路に光りが倒れて、もうすっ
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