すみません。
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と起って戸口《ドア》へ行き、黄瑞露に手伝って藁蒲団と毛布を室内に持ち込む。遠くから「コレア・ウラア!」の叫び声が近づいて来る。同時に隣室にもその合唱と足踏みがはじまる。黄瑞露と柳麗玉は一隅の薪の積んである前に寝床を設えている。
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黄瑞露 (隣室の騒ぎに眉をひそめて)何でしょうねえ、夜中だというのに――。(柳麗玉へ)今夜は此室《ここ》で我慢して下さいね。
柳麗玉 どこだって構いませんわ。
黄瑞露 (笑う)そんなどころじゃないんでしょう? 久しぶりですものね。
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二人は床を敷き終る。安重根は疲れた態でぼんやり椅子に掛けている。
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柳麗玉 (嬉し気に)嫌な小母さん! ちょっとお話しにならない?
黄瑞露 もう晩いからね。(出ようとして安重根を見る)まあ、安さんの顔いろったらないよ。病気が悪いんじゃないだろうかねえ。
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柳麗玉は心配そうに安重根を凝視める。「安重根ウラア!」の声が隣室に起る。
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黄瑞露 (しんみりと)ねえ、柳さん。去年の春でしたかしら。一度安さんが煙秋から出て来たことがあったっけねえ。あの時分の安さんから見ると、このごろは相変《そうがわ》りがしていますよ。さっきそこの裏口からはいって来た時、わたしゃ誰かと思った。(柳麗玉へ)どこで会ったの?
柳麗玉 (得意げに)先生の奥さまと一緒に、洪沢信さんの家《とこ》へお湯へはいりに行って、あたしだけ一足先に出て来ると、洪さんの横丁でばったり――。
黄瑞露 でも、よござんしたねえ。
柳麗玉 (たのもしそうに安重根を見ながら)ええ、疲れていて、皆さんが待っていて下さるのにすまないけれど、今夜は誰にも会いたくない。何ですか、静かに考えたいことがあるって言うんですの。あたしも、皆さんに悪いようにも思いましたけれど、でも、なにしろ、大事な身体でしょう? それに、本人がそういって肯《き》かないもんですから、ここなら、みんな集まっているだけに、かえって見つかりっこないと思って、ああして裏からそっとお伴れしましたのよ。
黄瑞露 ほんとに柳さんは気がつきますよ。今うちの人にだけこっそり耳打ちしておきましたからね。大丈夫心得ていますよ。知らん顔して、追っつけみんなを帰すでしょうから、安心してゆっくりおやすみなさいよ。
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黄瑞露去る。長い間。
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安重根 (苦笑)そいつあありがたい。そんなに人相が変ったんなら、誰に会ってもわかるまい。
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隣室では禹徳淳の歌の音読がはじまっている。柳麗玉は忍び笑いする。
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安重根 (歌声に聞き入って微笑)元気にやってるなあ。(柳麗玉の様子に気づいて)莫迦によろこんでいるねえ。君もおれにあいつを殺させたい一人なんだろう。みんなのように、ああしておれの志を壮として、行をさかんにしてくれるというわけか。
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柳麗玉の笑いは涕泣《すすりな》きに変っている。
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安重根 (憮然と)何だ、泣いているのか。
柳麗玉 (眼を拭いて)もうじき世界中に有名になる安さんと、こうしているなんて、あんまり嬉しいんで、つい――。同志の方があんなに大騒ぎしている安さんを、あたし、一人占めにしているんだわね。なんだかすまないような気がするわ。
安重根 (自嘲的に)ふん、おれは家族を迎えにハルビンへ行くんだ。
柳麗玉 (わざとらしく)ええ、そうよ。よく解ってますわ。そして、独立党煙秋支部長の安重根――特派活動隊参謀中将の安重根が、すぐ世界の安重根、歴史の安重根になるのね。(感激に耐えかねて)ああ、あたし――あたし、ほんとに幸福だわ。
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安重根は聞いていないように、手早く卓上の行李をあけて、つぎつぎに古着類を取り出す。茶の背広服、同じ色のルバシカ、円い運動帽子など。その動作は急に別人のように活気づいている。
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安重根 (陽気に独語)ハルビンは寒いからな。
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最後に露人の羊皮外套《パルナウルカ》を取り出す。
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安重根 これだ。
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柳麗玉がいそいそと外套を着せる。引きずるように長い。運動帽子をかぶる。考え込んで室内を歩きはじめる。柳麗玉は信頼と誇りの面持ちで、うっとりと安重根を見上げている。
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8
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元の隣室、集会所。
第六場の終りのままで、禹徳淳が、電燈から取った赤い紙片を読みつづけている。
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禹徳淳 (大声に)
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かの奸悪なる老賊め
われわれ民族二千万人
滅種の後に三千里の錦綾江山を
無声の裡に奪わんと
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青年らは凝然と聞き入っている。
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青年J (突然叫ぶ)何でもいいや。やっつけりゃあいいんじゃねえか。(禹徳淳へ)なあ、小父さん!
黄成鎬 静かにしてもらいてえね。もう何時だと思う。
青年K 何時だってかまうもんか。安重根さんが来るまでは帰《けえ》らねえぞ。
青年L そうだ、そうだ! みんな安さんを待って夜明かしするんだ。なあ、おい。
青年M 誰が安さんのほかに、生命を投げ出して決行しようという者がある。(叫ぶ)コレア・ウラア! 安重根ウラア!
禹徳淳 (手の赤紙を読み続ける)
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究凶究悪惨たる手段
十強国を欺きて
内臓を皆抜き取りながら
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青年N それは誰の作だ。
同志一 知らないのか。安さんさ。安重根が作ったんだよ。
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これより先、黄成鎬は右側の別室へ行って、禹徳淳が手にせると同じ赤い紙片を数多持って来て同志一、二に渡す。同志一、二はそれを青年らの間に配っている。
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同志二 (配り歩きながら)みんな持ってるだろうが――。
青年O いつ出したんだ。おれはもらわなかったぞ。
青年P 一枚下さい。
青年Q 長いんで、お終いのほう忘れちゃった。
禹徳淳 三節からだ。一緒に読もう。
黄成鎬 大きな声は困りますよ。ここいら露助の憲兵がちょいちょい廻って来て厳《やか》ましいんでね。
青年R 何でえ。びくびくするねえ、おやじ。
禹徳淳 (つづけて)
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十強国を欺きて
内臓を皆抜き取りながら
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合唱 (はじめは低く、おいおい高く、後半は各人憤激の大声で統一を欠く)
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何を不足に我慾を満たさんとて
鼠の子のごとくにここかしこを駈け歩き
誰をまた欺き何れの地を奪わんとするや
されど至仁至愛のわが上主は
大韓民族二千万口を
ひとしく愛憐せられなば
かの老賊に逢わしめ給え
逢いたりな逢いたりな
ついに伊藤に逢いたりな
汝の手段の奸猾は
世界に有名なるものを
わが同胞五六の後は
われらの江山は奪われて
行楽ともになし得ざりしを
甲午年の独立と
乙巳年の新条約後
ようよう自得下行の時に
今日あるを知らざりしか
犯すものは罪せられ
徳を磨けば徳到る
汝かくなるものと思いしや
ああ我等の同胞よ
一心団結したる上
外仇を皆滅して
わが国権を恢復し
富国強民図りなば
世界のうちに誰ありて
われらの自由を圧迫し
下等の冷遇なすべきや
いでいざ早く合心し
彼らの輩も伊藤の如く
ただ速かに誅せんのみ
立て勇敢の力持て
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左側の台所へ通ずる扉に青年Gが凭《よ》りかかって、先ほどからドアの向うへ注意を凝らしている。
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青年G (手を上げて一同を制する)しっ! 静かにしろ。話し声が聞える――。
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ぴたりと音読が止む。
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黄成鎬 (呆けながら不安げに)誰もいねえはずだが――。
青年G (ドアの隙間に耳を当てて)安さんだ。たしかに安さんの声だ。(台所を指さして、一同へ)おい、安重根が来ているぞ!
青年J なに? 安さんが来てる! 台所へか。こっそり裏からはいったんだろう。引っ張り出して演説させろ!
青年L 怪しからん。おれたちがこんなに待っているのに、裏から忍び込んで知らん顔しているなんて――。
青年M 馬鹿! そこが安さんの好いところじゃないか。
禹徳淳 (冷然と読みつづけて)
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国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
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青年たちは一斉に起ち上って「われらの安重根! 安重根ウラア!」と口ぐちに歓呼している。
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黄成鎬 (知らぬふりで台所のドアへ歩き出す)安さんが裏から来た? どれ見て来ましょう。
白基竜 (卓子から顔を上げて呼び停める)おやじ、待て!(禹徳淳へ)言ったほうがいい。ほんとのことを――安が迷っているということを言うべきだ。
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しんとして一同禹徳淳を凝視める。
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禹徳淳 (読み終る)国本確立は自ら成ることなかるべし。
(白基竜へ、悲痛に)僕にはその勇気がないんだ。今になって、この熱烈な同志たちに、安が――言えない。僕には言えない。(台所のドアに向って大声に繰り返す)
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国民たる義務を尽さずして
無為平安に坐せんには
国本確立は自ら成ることなかるべし
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一同呆然と、台所のドアと禹徳淳を交互に見守る時、硝子窓を荒々しく開けて朴鳳錫が顔を出す。
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朴鳳錫 (大声に)スパイは来ていないか。(同志一、二ら多勢窓際に駈け寄る)
同志一 スパイ――?
朴鳳錫 安のやつだ。安重根はスパイなんだ。
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とドアから駈け込んで来る。一同は罵り噪いで取り巻く。
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朴鳳錫 張首明と通じているんだ。あの床屋の張よ。先刻あいつがやって来て露《ば》れたんだが、おれは前から知っていた。安重根のやつ、伊藤公暗殺などと与太を放送しときゃがって、それを種に、おれたちの機密に食い込もうとしていたんだ。だから、いよいよというこの土壇場に、伊藤を殺っつける気なんかこれっぽっちもありゃあしない。(禹徳淳を見て)なあ徳淳、そうだろう? おれは今まで、李先生の命令で張の店を見張っていたが、白基竜は――。(白基竜を認めて)お! 白! 野郎いたか、停車場に。
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白基竜は無言で閉めきった台所の扉を指さす。
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朴鳳錫 台所にいるのか。何故みんな――畜生!
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一同激昂のうちに朴鳳錫はドアへ突進する。禹徳淳が抱き停める。
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禹徳淳 こら、早まったことをするな。安君の真意を突き留めてから――おい、朴を抑えろ!
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制しようとする者と、朴鳳錫とともに台所へ侵入しようとする者と
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