の他の器具必要品など乱雑に置かれて、中央に李主筆の大机、それを取りまいて古びた椅子四五脚。

正面に小窓二つ。下手に耳戸《くぐり》のような扉《ドア》。ドアを開けると急傾斜の階段の上り口が見える。窓を通して、人家の屋根、ニコライ堂、禿山などのウラジオ風景。遠くに一線の海。

壁は、露語と朝鮮語の宣伝びらや、切抜きや楽書でいっぱいだ。漢字で「八道義兵」、「大韓独立」、「民族自決」と方々に大書してある。正面の窓の間に旧韓国の国旗を飾って、下に西洋の革命家の写真など懸っている。天井は低く傾き、壁は落ちかかり、すべてが塵埃と貧窮と潜行運動によごれきった、歪んだ屋根裏の景色。

前場と同日、十月十七日の夕刻。二つの窓から夕焼けが射し込んで、室内は赤あかと照り映えている。

李剛――五十歳。大東共報主筆。露領の朝鮮人間に勢力ある独立運動の首領。親分肌の学者で、跛者《びっこ》だ。すっかり露化していて、ルバシカに、室内でも山高帽をかぶっている。
李春華――李剛の若い妻。
柳麗玉――ミッション上りの同志で安重根の情婦。ロシアの売春婦のような鄙びた洋装。二十七歳ぐらい。
卓連俊――老人の売卜乞食。
朴鳳錫――大東共報記者、青年独立党員。
鄭吉炳――安重根の同志。独立運動の遊説家。
クラシノフ――亡命中の露西亜革命党員。李剛の食客。他同志一、二。

李春華は一隅で、石油の古罐に炭火をおこして粥を煮て、葱《ねぎ》の皮をむいている。傍で卓連俊がその手伝いをしながら、生葱を食べている。クラシノフは、中央の机に腰かけて露語新聞を読み、鄭吉炳は箒でそこらを掃き、その間を李剛は、何か呟きながら探し物の態で、部屋じゅう跛足を引いて歩き廻っている。隅の卓子で、柳麗玉が手紙を書いているのを、朴鳳錫は印刷機を掃除しながら、ちらちらとその手許を覗く。
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柳麗玉 (手で、書いている紙片を覆って)お止しなさいよ、覗くの――人の書いてるものや読んでるものを覗くのは、失礼よ。
朴鳳錫 おや! まるで公爵家の家庭教師の言い草だ。ははあ、恋愛は昔から多くの惜しい同志を反動家にして来た。してみると、それは安さんへ書いているんですね。しかし、安さんなら、もうこのウラジオへ来てるはずですよ。
鄭吉炳 (箒をとめて)十七日にはそっちへ行くという、煙秋《エンチュウ》から出した安さんの手紙が先生んとこへ届いたのは、いつだったっけな。一昨日《おととい》でしたね、先生。
李剛 (歩きながら)そうだ。
朴鳳錫 (誰にともなく大声に)おい! 白基竜はどうしたんだ。安さんは、今朝早くやって来る予定なのに、こう夕方になっても顔を見せないから、おおいに歓迎しようと待ち構えていた同志たちは拍子抜けがして、ああやってたびたび訊き合わせに来るし、今度は、李先生まで心配して、さっき黄成鎬の家へ白基竜のやつを様子見にやったんだが――。
柳麗玉 ええ。安さんはウラジオへ出て来れば、黄成鎬さんとこへ泊るにきまっていますけれど、今度だけはあたし、まっすぐここへ来るはずだと思うわ。先生はじめ同志の方が、皆こんなに待っていることは、安さんだって知っているんですもの。
卓連俊 待ってるのあ、仲間や先生だけじゃああるまいってね。
李春華 お爺さん、しょうがないね。そうやって剥《む》く傍から葱を食べちまって。それより、水をいっぱい汲んで来ておくれよ。
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卓連俊はバケツを提げてドアの階段口から降りる。
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李春華 (李剛へ)あなた、何をさっきからうろうろ歩き廻っているんです。また探し物ですか。
李剛 うむ。君は知らないかな。今朝衛生局から廻って来た通知書なんだが、あれに、この辺の種痘は何日から始めるとあったか覚えていないか。
李春華 さあ。私はよく見もしませんでしたけれど、あれなら、今し方鄭さんが読んでいたようですよ。ねえ鄭さん、ほら、市庁から来た青い紙。どこへやって?
鄭吉炳 どこだったか、そこらへ置きましたよ。ありませんか。
李剛 見つからなくて弱ってるんだ。明日の新聞にちょいと書いといてやろうと思うんだが――。
クラシノフ ねえ。李さん。ハルビンのノウワヤ・ジイズニ新聞がこんなことを言ってる。(読み上げる)「今回当地における伊藤公とわが北京公使ならびに大蔵大臣ココフツォフとの会見につき、本社は確かなる筋より左のごとき説話を聴けり。今回の会見は、満洲における日露両国の地位に関し、過般来日清露間に継続したる談判の結果にして、決して偶然の出来事にあらず。ポウツマス条約は単に紙上に締結せられたるのみ。これが実行の場合、全局の政策と衝突するの点尠しとせず。ことに北満における日露の商工的利害に関し最も然りとなす。しこうして清国はこの間に立ちて独り漁夫の利を占めつつあるなり。」――とこう言うんだが、この新聞は社会党の機関紙だ。社会党のやつらまで、急にこんなに関心を持ち出したところを見ると、やっぱり噂どおり、伊藤とココフツォフはハルビンで会うことに確定してるんだな。
李剛 (まだ探しながら)そんなことより、こっちは植え疱瘡《ぼうそう》の通知書だ。近いうちに、市の医者がこの近所へ出張して来て、種痘をすると言って来たから、その期日をだしておかなくちゃあ――未来の労働者と兵隊がみんな疱瘡に罹《かか》って死んでしまったら、プリンス伊藤もココフツォフも困るだろう。
柳麗玉 あ、これじゃありませんか。何だろうと思って、今も見ていたんですけれど、気がつきませんでした。
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と自分の卓子の上から青い紙片を取って李剛に渡す。李剛は中央の大机に帰って、通知書を参考しながら原稿を書き出す。同志一と二があわただしく駈け上って来て扉《ドア》から顔を出す。
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同志一 安重根さんは来ていませんか。
同志二 たしかに今朝ウラジオへ着いたらしいんですが――。
鄭吉炳 (むっとして)何度来たって、いないものはいませんよ。こっちでも、あちこち心当りのところへ人をやって探してる最中なんです。
朴鳳錫 (戸口へ進みながら)君らは、今朝からそうやって入りかわり立ちかわり安君を探しに来るが、僕らが安君を隠しているとでも思ってるのか。
同志一 (鄭吉炳へ)そうですか。(独言のように)変だなあ――けさ着いたまではわかってるんだが、すると、それからどこへ廻ったんだろう?
同志二 (朴鳳錫へ)いや、そういうわけじゃあありません。あんまり皆が待ってるもんだから、じっとしていられなくて、ことによると、もうここへ来てるかもしれないと思って来てみたんですが――そうですか。じゃあ、また――。
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二人は急いで降りて行く。
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朴鳳錫 変だなあ実際。安君はいったいどうしたんだろう?
李剛 (気がついたように)白基竜はまだ帰らないか。朴君、窓から見てごらん。
朴鳳錫 自転車で行ったんですし、それに、そんなに遠いところじゃなし、もうとうに帰ってなくちゃならないんですが、(正面の窓に立って下の往来を覗き、すぐ背伸びして遠くの港を見る)船が入港《はい》って来た。軍艦らしい――そうだ。日本の軍艦だ。
クラシノフ (舌打ちして)またか。今にぞろぞろ日本の水兵が上陸して来る。そうすると、ここらの露路うらから、化物のように白粉を塗りまくったロシアの女房たちが、まるで革命のように繰り出して行って、桟橋通りを埋めつくすのだ。そして、街全体は瞬く間に、唄と笑いと火酒《ウオッカ》の暴動だ。ははははは、女たちの仕事は、実行の上で、僕らよりずっと国境を越えているんだからかなわないよ。
李春華 ロシアの女ばかりじゃあありませんわ。このごろでは、この辺の朝鮮の女まで、日本の水兵と聞くと、眼の色を変えて騒いでいますわ。
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李剛は、これらの話し声をよそに、机上に頬仗をついてパイプをふかしながら、凝然と考えこんでいる。窓の残光徐々に薄らいで、この時は室内に半暗が漂っている。
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柳麗玉 (書き物を続けながら)いいじゃあありませんか。何もできない人は、そんなことでもして、日本人からうん[#「うん」に傍点]とお金を搾《しぼ》ってやるといいんだわ。
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卓連俊が、水のはいっているバケツを提げて、あわただしく上って来る。
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卓連俊 (戸口に立ち停って階下を見下ろす)どうもいけ[#「いけ」に傍点]図々しい野郎だ! 角の床屋です。いけねえって言うのに、どんどん上って来やあがる――。
朴鳳錫 (ドアへ走って)角の床屋? 角の床屋って、あの、スパイの張首明か。
卓連俊 先生に用があると言って肯《き》かねえのだ。いま都合を訊いて来てやるから待っていろと言っても、あん畜生、おれを突き退《の》けるようにして上って来ようとする――や! 来た、来た! 上って来やあがった!
鄭吉炳 あいつ、俺たちに白眼《にら》まれてることを知らないわけじゃあるまい。承知の上で押し掛けて来たとすると、スパイめ、何か魂胆があるかもしれないぞ。
李春華 燈火《あかり》をつけましょうか。
クラシノフ (不安げに立って)いやいや、暗いほうがいいです。
朴鳳錫 上げちゃあまずい。よし。どんな用か、僕が行って会ってやる。
鄭吉炳 (李剛へ)僕も行ってみましょうか。
李剛 (苦笑して)そうしてくれたまえ。朴君は喧嘩っ早いから、ひとりじゃあ心配だよ。
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朴鳳錫と鄭吉炳は、ドアを出て階段を駈け降りて行く。一同じっと聞耳を立てている。「何だ、何だ。」「何の用だ。ここは貴様の来るところじゃない!」などと二人の大声や跫音に混って、張首明の低い声が聞えて来る。
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大東共報社の階下。民家の物置きにて、古家具、新聞雑誌、穀物の袋等積み重なり、手車なども引き込んである。そこここの床に食客たちが寝泊りするマトレスが敷いてある。下手寄りに、出入口のドアが開け放されて、街路の灯りがかすかに流れ込んでいる。正面中央に、階上の大東共報社へ昇る階段が、下から三分の二ほど見える。舞台はほとんど闇黒。

前の場の続き。前場の人々全部と、理髪師張首明、白基竜、安重根。白基竜は朴鳳錫と同じ若い独立党員で、大東共報記者。

正面の階段を、理髪師の白衣を着た張首明が、突き落されるように降りて来る。朴鳳錫と鄭吉炳は、階段の中途に立ち停まって足だけ見えている。
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張首明 (階段の根に身を支えて)何をするんです。乱暴な! 李先生に用があるんですよ。
朴鳳錫の声 何だ。だから、何の用だと訊いてるじゃないか。
鄭吉炳の声 張さん、ここは君の来るところじゃないぜ。用があるなら、僕らに言いたまえ。先生に取り次ぐから――。
張首明 私も来たかありませんがね、伝言《ことづけ》を頼まれたから、仕方なしに来たんです。
朴鳳錫 (駈け降りて来る)こいつ! 貴様が先生に用のあるはずはない。おい、鄭君、こんなやつと真向《まとも》に口利くことないんだ。抛り出しちまおう。
鄭吉炳 (続いて駈け降りて朴鳳錫を制する)待てよ。いいから待てよ。(張首明へ)君も強情だな。僕らが取り次ぐと言ったら、ともかくその用というのを話したらいいじゃないか。
張首明 (朴鳳錫へせせら笑って)おれの身体にさわると、大変なことになるのを知らねえか。おれは、ただの床屋の張さんじゃあねえぞ。
朴鳳錫 (鄭吉炳を押し退《の》けようとしながら)なにを! 貴様、日本のスパイだと言いたいんだろう。同じ朝鮮人のくせに、日本人から女房と金を貰って、金斗星先生や安――。
鄭吉炳 朴君!

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