鳳錫 金斗星先生の独立運動をスパイしてやがる。こっちだって、そんなことはちゃんと知ってるんだ。てめえのような裏切者は――(鄭吉炳へ)放せ。放せよ。畜生! 張の野郎を殴り殺してやるんだ。
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と鄭吉炳を振り払って掴みかかろうとする時、階段の上に薄い灯りがさして李剛の声がする。
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李剛の声 (静かに)張さんですか。
張首明 (階段の上を覗いて)おや、先生。李先生ですね。へへへ、どうも、真っ暗で――。
李剛の声 張さんですね。
張首明 ちょっとお話ししたいことがあるんですが――。
李剛の声 何です。
朴鳳錫 (開け放しのドアを指して、張首明へ)二階へ上るなら、戸を閉めて来い。
張首明 いえ、こちらで結構ですよ。なにも、あなた方のように、年中秘密の相談があるというわけではなし――。
朴鳳錫 (再び掴みかかろうしして鄭吉炳に停められる)嫌なやつだなあ、こいつ。
鄭吉炳 まあ朴君、そう君のように――とにかく、先生に話しがあるといって来ているんだから、言うことだけ言わして、早く帰そうじゃないか。
張首明 安重根という人に頼まれて来たんです。
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裸か蝋燭を持って、李剛が跛足《びっこ》を引きながら降りて来ている。
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李剛 (呆けて)安重根?――さあ、聞いたような名だが、よく知りません。どういう話です。
鄭吉炳 (急き込む)張さん、君はその安という人と以前から識り合いなのか。
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李春華と柳麗玉が降りて来る。柳麗玉は蝋燭を持っていて、李剛のと二本で舞台すこしく明るくなる。
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張首明 以前から識りあいというわけでもありませんが、まあ、そうです。安重根さんは私たちの仲間です。
鄭吉炳 君たちの仲間――と言うと、その人も床屋なんだね?
張首明 いえ。安さんは床屋じゃあありません。
鄭吉炳 同業ではないけれど、仲間だと言うのかい。すると――。
朴鳳錫 (激昂して)解ってるじゃあないか。やっぱり安のやつ、張の一味なんだ。あいつも密偵《いぬ》だったんのだ。道理で、何だか変だと思っていたよ。第一、今日なんか、ウラジオへ着いたらすぐ、先生のところへ顔出しすべきじゃないか。それが――。
柳麗玉 (鋭く)朴さん、何を言うんです。
張首明 そのことですよ。今朝早く店へ安重根という人が見えて、髪を刈ったり鬚を剃ったりして、お正午《ひる》ごろまで遊んでいましたが、午後ちょっと買物をして来ると言って町へ出て行きました。その時、出がけに、今夜晩くなってからこちらの先生をお訪ねするからそう伝えておいてくれ、と私に頼んで行ったから、ちょっとそれを言いに来たんです。
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李剛は空箱に腰かけ、一同は張首明と李剛を取りまいて立っている。顔を見合って、しばらく間がつづく。
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朴鳳錫 (李剛へ駈け寄って)それごらんなさい、先生。僕は前から、安重根は怪しいと白眼《にら》んでいたんです。今朝、太陽と一しょにウラジオへ来ているくせに、正午までこんなやつのところにごろごろしていて、何を話したんだか知れたもんじゃあない。暗くなってから来るとか何とか、いい加減なことを言って、見ていらっしゃい。きっと来ませんから――でたらめな計画を吹聴しといて、自分はスパイを稼いでやがる。来られた義理じゃあないんだ。もし来たら、この長靴のように伸ばしやる!
李剛 (沈思の態にて、静かに張首明へ)なるほど。その安重根という人は、あなたの店でいろいろ話し込んだ上、あなたに伝言を頼んで、午後町へ出て行ったというんですね。
張首明 そうです。なんだか皆さんのお話しの模様では、御存じの方らしいじゃありませんか。
朴鳳錫 そんなことは余計だ。用が済んだらさっさと帰れ。
張首明 帰れと言わなくたって帰りますよ。(独言のように)なんだか知らねえが、まるで支那祭りの爆竹みてえにぽんぽんしてやがる!
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と帰りかけて、戸口からそとを覗く。
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張首明 誰か来ましたよ、自転車で――あ、白さんだ。白基竜さんだ。
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言いながら出て行く。この間に李春華が二階へ上って、羊燈に灯を入れて持って来て傍らの古家具の上に置く。張首明と入れ違いに白基竜がはいって来る。
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白基竜 (戸口に自転車を立て掛けながら外を振り返って)今のは床屋の張ですね。不思議なお客だな。何しに来たんです。
李剛 遅かったじゃないか。安重根君はどうした。
白基竜 それが、どうも変なんです。黄成鎬さんのところへも、今日早く着くからという報せがあったそうで、あちらへもわいわい詰めかけて待っていますし、僕も、いま来るか今くるかと思って、こんなに晩くまで待ってみましたが――。
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階段の上にクラシノフが現れて下を覗く。
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クラシノフ どうしたい。だいぶ大きな声がしてたようだが、床屋のやつ、もう帰ったのか。
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降りて来る。
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白基竜 何かの都合で一日延びたんじゃないでしょうか。
朴鳳錫 なあに、こっちにはすっかりわかっているんだ。君のいないあいだに、今の床屋の口から大変なことが露《ば》れたのだ。
白基竜 安さんのことでか? 何だ。どんなことだ。
李剛 (決定的に)朴君、私はあの張首明という人間が気になってならない。君、すぐ出かけて行って、あいつの家を見張ってみたらどうだろう、出て来たら、無論、後を尾けるのだ。
李春華 (階段を上りながら)いま熱いお粥ができましたから、皆さんでちょっとすましてから――。
李剛 (激しく)いかん、いかん! 急ぐんだ。それから白基竜君、君は停車場の待合室へ行って、腰掛けにごろ寝している連中のなかに安重根がいないか見て来てくれたまえ。
白基竜 僕にはさっぱり解らないが、安さんがどうかしたんですか。いったい何があったんです。
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朴鳳錫が促して、二人は急いで出ていく。
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李春華 では、あとの人だけで御飯にしましょうか。
李剛 (いらいらして)いや。二人が帰ってから、みんな一緒に食おう。
鄭吉炳 (ばつの悪い空気を感じて)今日は十七日でしたね。
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誰も答えない。開け放したドアの外を行李を抱えた安重根が通って、すぐ物蔭に隠れる。
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鄭吉炳 ワデルフスキイ街《まち》に七の日の縁日がありますから、それでは私は、その間にちょっと××運動のアジ演説をやって来ようかな。あすこの市《いち》には、朝鮮人の人出が多いから、わりに効果があるんです。
クラシノフ 僕も弥次りに行こう。飯にならないんじゃあ、いま家にいたってしようがない。ははははは。
李剛 (ぼんやりと)そうだ。そうしてくれたまえ。
クラシノフ 救世軍の前でやろうじゃないか。やつらの楽隊を人寄せに利用するのだ。
鄭吉炳 しかし、咽喉が耐りませんよ。あの太鼓とタンバリンに勝とうとすると、いい加減声が潰れてしまう――おや! 卓さんは? あの人を引っ張って行って卜《うらな》いの夜店を出させると、うまく往きゃあ煙草銭ぐらいにはなるんだがな。
クラシノフ 名案だ。卓さんはどこにいる。
李春華 二階に寝ていますわ。
鄭吉炳 相変らず要領がいいな。
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駈け上って行く。間もなく寝呆けている卓連俊を引き立てて降りて来る。
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鄭吉炳 お爺さんしっかり頼むぜ。ワデルフスキイの縁日へ商売に行くんだ。眼をぱっちり開けなよ。
卓連俊 (よろよろしながら)卜い者に自分の運命がわからねえように、あんたにゃあ民族の運命がわからねえ、皮肉《ひにく》だね。お互いに無駄なこった。
クラシノフ はっはっは、洒落たことを吐《ぬ》かしたね。商売道具を持ってついて来たまえ。一緒にやろうじゃないか。
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卓連俊は自分の寝床のそばへ売卜の道具のはいった小鞄を取りに行こうとして、上着の下から火酒の壜が転がり出る。
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鄭吉炳 なんだ、臭いと思ったら、爺さん、早いとこ呑《や》ってやあがら。さ、出かけよう。すこしパンフレットを持って行こう。
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鄭吉炳とクラシノフは小冊子の束を抱えて出て行く。古ぼけた手鞄を提げて卓連俊が続く。李剛はパイプを吹かして、じっと洋燈の灯に見入っている。間。
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李春華 (静かに李剛へ近づいて)あなた、みんな外へお出しになったのね。何かお考えがあるんでしょう?
李剛 (気がついたように)うむ。考えがあるのだ、君も、今のうちに柳さんを伴れて、いつものように洪沢信のところへ貰い湯に行って来たらどうだ。
李春華 そうね。そうしましょう――では、柳さん、このひまに一風呂浴びて来ましょうか。
柳麗玉 (物思いから呼び覚まされて快活を装い)え? ええ。お供しますわ。
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と李剛の様子に眼を配りながら、柳麗玉は李春華とともに入浴の道具をまとめて去る。李剛はそそくさと起って、いま女たちが閉めて出た表のドアを開けて来る。そして、階段のほどよい段に洋燈《ランプ》を移し、第一段に腰かけて人待ち顔に洋燈の下でパイプの掃除にかかる。遠くで汽笛が転がる。朝鮮服の安重根がちょっと室内を覗いたのち、足早やにはいって来る。革紐で縛った古行李を引きずるように提げている。すぐ李剛と向い合って行李に腰かける。
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安重根 (微笑して)しばらくでした。
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不安らしく階段の上に耳を澄ます。
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李剛 (パイプの掃除に熱中を装い、無愛想に)大丈夫です。誰もいない。君の伝言《ことづけ》どおりにみんな出してやった。が、そこらでうちのやつに会わなかったですか。
安重根 すぐ前の往来で奥さんと柳に会いましたが、二人とも気がつかないようでしたから、黙って擦れ違って来ました。
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李剛は無言でうなずいて、起ってドアのほうへ歩き出しながら、そっとルバシカの下へ手を入れて財布に触ってみる。安重根も行李を抱えて続こうとする。
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李剛 (戸口で振り返って)君、洋燈《ランプ》を――。
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消す手真似をして出て行く。安重根は引っ返して洋燈を吹き消し、急ぎ足に李剛のあとを追って出る。
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       5

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港の見える丘。前の場のすぐ後。

砂に雑草が生えている。暗黒。崖縁の立樹を通して、はるか眼下に港が見える。碇泊船の灯。かすかに起重機の音。星明り。

安重根と李剛が話しながら出て来る。安重根は行李を抱え、李剛は跛足《びっこ》を引き、パイプをふかしている。
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李剛 朝鮮の着物には個性がないからねえ、忍術には持ってこいだよ。
安重根 何と言いましたっけね、あの角の床屋、来ましたか。
李剛 張首明か。(港に向って草の上に腰を下ろす)歩くのは降参だ。うむ。来たよ。あの男の言葉から、僕は君の意思を察した
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