も然りとなす。しこうして清国はこの間に立ちて独り漁夫の利を占めつつあるなり。」――とこう言うんだが、この新聞は社会党の機関紙だ。社会党のやつらまで、急にこんなに関心を持ち出したところを見ると、やっぱり噂どおり、伊藤とココフツォフはハルビンで会うことに確定してるんだな。
李剛 (まだ探しながら)そんなことより、こっちは植え疱瘡《ぼうそう》の通知書だ。近いうちに、市の医者がこの近所へ出張して来て、種痘をすると言って来たから、その期日をだしておかなくちゃあ――未来の労働者と兵隊がみんな疱瘡に罹《かか》って死んでしまったら、プリンス伊藤もココフツォフも困るだろう。
柳麗玉 あ、これじゃありませんか。何だろうと思って、今も見ていたんですけれど、気がつきませんでした。
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と自分の卓子の上から青い紙片を取って李剛に渡す。李剛は中央の大机に帰って、通知書を参考しながら原稿を書き出す。同志一と二があわただしく駈け上って来て扉《ドア》から顔を出す。
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同志一 安重根さんは来ていませんか。
同志二 たしかに今朝ウラジオへ着いたらしいんですが――。
鄭吉炳 (むっとして)何度来たって、いないものはいませんよ。こっちでも、あちこち心当りのところへ人をやって探してる最中なんです。
朴鳳錫 (戸口へ進みながら)君らは、今朝からそうやって入りかわり立ちかわり安君を探しに来るが、僕らが安君を隠しているとでも思ってるのか。
同志一 (鄭吉炳へ)そうですか。(独言のように)変だなあ――けさ着いたまではわかってるんだが、すると、それからどこへ廻ったんだろう?
同志二 (朴鳳錫へ)いや、そういうわけじゃあありません。あんまり皆が待ってるもんだから、じっとしていられなくて、ことによると、もうここへ来てるかもしれないと思って来てみたんですが――そうですか。じゃあ、また――。
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二人は急いで降りて行く。
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朴鳳錫 変だなあ実際。安君はいったいどうしたんだろう?
李剛 (気がついたように)白基竜はまだ帰らないか。朴君、窓から見てごらん。
朴鳳錫 自転車で行ったんですし、それに、そんなに遠いところじゃなし、もうとうに帰ってなくちゃならないんですが、(正面の窓に立って下の往来を覗き、すぐ背伸びして遠くの港を見る)船が入港《はい》って来た。軍艦らしい――そうだ。日本の軍艦だ。
クラシノフ (舌打ちして)またか。今にぞろぞろ日本の水兵が上陸して来る。そうすると、ここらの露路うらから、化物のように白粉を塗りまくったロシアの女房たちが、まるで革命のように繰り出して行って、桟橋通りを埋めつくすのだ。そして、街全体は瞬く間に、唄と笑いと火酒《ウオッカ》の暴動だ。ははははは、女たちの仕事は、実行の上で、僕らよりずっと国境を越えているんだからかなわないよ。
李春華 ロシアの女ばかりじゃあありませんわ。このごろでは、この辺の朝鮮の女まで、日本の水兵と聞くと、眼の色を変えて騒いでいますわ。
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李剛は、これらの話し声をよそに、机上に頬仗をついてパイプをふかしながら、凝然と考えこんでいる。窓の残光徐々に薄らいで、この時は室内に半暗が漂っている。
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柳麗玉 (書き物を続けながら)いいじゃあありませんか。何もできない人は、そんなことでもして、日本人からうん[#「うん」に傍点]とお金を搾《しぼ》ってやるといいんだわ。
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卓連俊が、水のはいっているバケツを提げて、あわただしく上って来る。
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卓連俊 (戸口に立ち停って階下を見下ろす)どうもいけ[#「いけ」に傍点]図々しい野郎だ! 角の床屋です。いけねえって言うのに、どんどん上って来やあがる――。
朴鳳錫 (ドアへ走って)角の床屋? 角の床屋って、あの、スパイの張首明か。
卓連俊 先生に用があると言って肯《き》かねえのだ。いま都合を訊いて来てやるから待っていろと言っても、あん畜生、おれを突き退《の》けるようにして上って来ようとする――や! 来た、来た! 上って来やあがった!
鄭吉炳 あいつ、俺たちに白眼《にら》まれてることを知らないわけじゃあるまい。承知の上で押し掛けて来たとすると、スパイめ、何か魂胆があるかもしれないぞ。
李春華 燈火《あかり》をつけましょうか。
クラシノフ (不安げに立って)いやいや、暗いほうがいいです。
朴鳳錫 上げちゃあまずい。よし。どんな用か、僕が行って会ってやる。
鄭吉炳 (李剛へ)僕も行ってみましょうか。
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