美的生活を論ず
高山樗牛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)事《つか》ふる
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)新浴|方《まさ》に了り、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「血+おおざと」、第4水準2−88−4]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)知らず/\
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一 序言
古の人曰へらく、人は神と財とに兼ね事《つか》ふること能はず。されば生命の爲に何を食ひ、何を飮み、また身體の爲に何を衣《き》むと思ひ勞《わづ》らふ勿れ。生命は糧《かて》よりも優《まさ》り、身體は衣《ころも》よりも優りたるものならずやと。人若し吾人の言をなすに先だちて、美的生活とは何ぞやと問はば、吾人答へて曰はむ、糧と衣よりも優りたる生命と身體とに事ふもの是れ也と。
二 道徳的判斷の價値
夫れ道徳は至善を豫想す。至善とは、人間行爲の最高目的として吾人の理想せる觀念なり。是の至善の實現に裨益する所の行爲、是を善と謂ひ、妨害する所の行爲、是を惡と謂ふ。至善其物の内容如何は、學者によりて必ずしも説を同うせずと雖も、道徳の判斷が、是の地盤の上に立てるの一事は、古今を通じて渝《かは》らず。されば凡百の道徳は、其の成立の上に於て、少くとも兩樣の要件を具足するを必《ひつ》とすと見るを得む。兩樣の要件とは何ぞ。一に曰く、至善の意識也。二に曰く、是の意識に遵《したが》ふて外に現はれたる行爲の能く其の目的に協《かな》へる事也。至善に盡すの意ありて而かも其の行ひ是れに伴はざらむ乎、若しくは其の行ひ能く善に協ひて而かも善を爲すの心なからむ乎、道徳上の價値は共に全きを稱すべからざらむ。
是の如く詮議し來れば、吾人は茲に一疑惑に逢着せざるを得ざる也。例へば古の忠臣義士の君國に殉せるもの、孝子節婦の親夫に盡せるもの、彼等は其の君國に殉し、親夫に盡すに當りて、果して所謂る至善の觀念を有せし乎、有して而して是に準據したりし乎。換言すれば、君國の爲にするは彼等の理想にして、而して死は是れに對するの手段なりと考へし乎。親夫の爲にするは彼等の至善にして、而して是れに盡すは彼等の本務なりと思ひし乎。若しくは、
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