ば少しも腹立たず』。
 立上りつゝ築垣《ついがき》の那方《あなた》を見やれば、琴の音《ね》微《かす》かに聞ゆ。月を友なる怨聲は、若しや我が慕ひてし人にもやと思へば、一|期《ご》の哀れ自《おのづか》ら催されて、ありし昔は流石《さすが》に空《あだ》ならず、あはれ、よりても合はぬ片絲《かたいと》の我身の運《うん》は是非もなし。只々塵の世に我が思ふ人の長《とこしな》へに汚《けが》れざれ。戀に望みを失ひても、世を果敢《はか》なみし心の願、優に貴し。
 千緒萬端の胸の思ひを一念「無常」の熔爐に溶《と》かし去りて、澄む月に比べん心の明るさ。何れ終りは同じ紙衣玉席、白骨を抱きて榮枯を計りし昔の夢《ゆめ》、觀じ來れば世に秋風の哀れもなし。君も、父も、戀も、情《なさけ》も、さては世に産聲《うぶごゑ》擧げてより二十三年の旦夕に疊み上げ折重ねし一切の衆縁、六尺の皮肉と共に夜半《よは》の嵐に吹き籠めて、行衞も知らぬ雲か煙。跡には秋深く夜靜《しづか》にして、亙る雁《かりがね》の聲のみ高し。

   第十四

 治承三年五月、熊野參籠の此方《このかた》、日に増し重《おも》る小松殿の病氣《いたつき》。一門の頼《たより
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