ゝ西に傾きて、風の音さへ澄み渡るはづき半《なかば》の夕暮の空、前には閑庭を控へて左右は廻廊[#「廻」は底本のまま]を繞《めぐ》らし、青海の簾《みす》長く垂れこめて、微月の銀鈎空しく懸れる一室は、小松殿が居間《ゐま》なり。内には寂然として人なきが如く、只々簾を漏れて心細くも立迷ふ香煙一縷、をりをりかすかに聞ゆる戞々の音は、念珠を爪繰《つまぐ》る響にや、主が消息を齎らして、いと奧床し。
やゝありて『誰かある』と呼ぶ聲す、那方《あなた》なる廊下の妻戸《つまど》を開《あ》けて徐ろに出で來りたる立烏帽子に布衣着たる侍は齋藤瀧口なり。『時頼參りて候』と申上ぐれば、やがて一間《ひとま》を出で立ち給ふ小松殿、身には山藍色《やまあゐいろ》の形木《かたぎ》を摺りたる白布の服を纏ひ、手には水晶の珠數を掛け、ありしにも似ず窶れ給ひし御顏に笑《ゑみ》を含み、『珍らしや瀧口、此程より病氣《いたつき》の由にて予が熊野參籠の折より見えざりしが、僅の間に痛く痩せ衰へし其方が顏容《かほかたち》、日頃鬼とも組まんず勇士も身内の敵には勝たれぬよな、病は癒えしか』。瀧口はやゝしばし、詰《きつ》と御顏を見上げ居たりしが、『久し
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