も反《そ》らん計りにぞ嬉しがりける。
 時は治承《ぢしよう》の春、世は平家の盛、そも天喜《てんぎ》、康平《かうへい》以來九十年の春秋《はるあき》、都も鄙《ひな》も打ち靡きし源氏の白旗《しらはた》も、保元《ほうげん》、平治《へいぢ》の二度の戰《いくさ》を都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十餘州に到らぬ隈《くま》なき平家の權勢、驕《おご》るもの久しからずとは驕れるもの如何で知るべき。養和《やうわ》の秋、富士河の水禽《みづとり》も、まだ一年《ひととせ》の來《こ》ぬ夢なれば、一門の公卿殿上人《こうけいてんじやうびと》は言はずもあれ、上下の武士|何時《いつ》しか文弱《ぶんじやく》の流《ながれ》に染《そ》みて、嘗て丈夫《ますらを》の譽に見せし向ふ疵も、いつの間にか水鬢《みづびん》の陰《かげ》に掩《おほ》はれて、重《おも》きを誇りし圓打《まるうち》の野太刀《のだち》も、何時しか銀造《しろがねづくり》の細鞘に反《そり》を打たせ、清らなる布衣《ほい》の下に練貫《ねりぬき》の袖さへ見ゆるに、弓矢持つべき手に管絃の調《しらべ》とは、言ふもうたてき事なりけり。
 時頼|世《よ》の有樣を觀て
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