》の忝《かたじけな》さと、是非もなき身の不忠を想ひやれば、御言葉の節々《ふし/″\》は骨を刻《きざ》むより猶つらかりし。哀れ心の灰に冷え果てて浮世に立てん烟もなき今の我、あゝ何事も因果なれや。
 月は照れども心の闇に夢とも現《うつゝ》とも覺えず、行衞もしらず歩み來りしが、ふと頭を擧ぐれば、こはいかに身は何時《いつ》の間にか御所の裏手、中宮の御殿の邊《ほとり》にぞ立てりける。此春より來慣れたる道なればにや、思はぬ方に迷ひ來しものかなと、無情《つれな》かりし人に通ひたる昔忍ばれて、築垣《ついがき》の下《もと》に我知らず彳《たゝず》みける。折柄傍らなる小門の蔭にて『横笛』と言ふ聲するに心付き、思はず振向けば、立烏帽子に狩衣《かりぎぬ》着たる一個の侍《さむらひ》の此方に背を向けたるが、年の頃五十計りなる老女と額を合せて囁《さゝや》けるなり。

   第十三

 月より外に立聞ける人ありとも知らで、件の侍は聲|潛《ひそ》ませて、『いかに冷泉《れいぜい》、折重《をりかさ》ねし薄樣《うすやう》は薄くとも、こめし哀れは此秋よりも深しと覺ゆるに、彼の君の氣色《けしき》は如何なりしぞ。夜毎の月も數へ盡して、圓《まどか》なる影は二度まで見たるに、身の願の滿たん日は何れの頃にや。頼み甲斐なき懸橋《かけはし》よ』。
 怨みの言葉を言はせも敢へず、老女は疎《まば》らなる齒莖《はぐき》を顯はしてホヽと打笑《うちゑ》み、『然《さ》りとは戀する御身にも似合はぬ事を。此の冷泉に如才《じよさい》は露なけれども、まだ都慣れぬ彼の君なれば、御身が事|可愛《いと》しとは思ひながら、返す言葉のはしたなしと思はれんなど思ひ煩うてお在《は》すにこそ、咲かぬ中《うち》こそ莟ならずや』。言ひつゝツと男の傍に立寄りて耳に口よせ、何事か暫し囁《さゝや》きしが、一言毎《ひとことごと》に點頭《うなづ》きて冷《ひやゝ》かに打笑める男の肩を輕く叩きて、『お解《わか》りになりしや、其時こそは此の老婆《ばゞ》にも、秋にはなき梶の葉なれば、渡しの料《しろ》は忘れ給ふな、世にも憎きほど羨ましき二郎ぬしよ』。男は打笑ふ老女の袂を引きて、『そは誠か、時頼めはいよ/\思ひ切りしとか』。
 己れが名を聞きて、松影に潛める瀧口は愈々耳を澄しぬ。老女『此春より引きも切らぬ文の、此の二十日計りはそよとだに音なきは、言はでも著《し》るき、空《あだ》なる戀と思ひ絶えしにあんなれ。何事も此の老婆《ばゞ》に任せ給へ、又しても心元《こゝろもと》なげに見え給ふことの恨めしや、今こそ枯技《かれえだ》に雪のみ積れども、鶯鳴かせし昔もありし老婆、萬《よろづ》に拔目《ぬけめ》のあるべきや』。袖もて口を覆《おほ》ひ、さなきだに繁き額の皺を集めて、ホヽと打笑ふ樣、見苦しき事言はん方なし。
 後の日を約して小走りに歸り行く男の影をつく/″\見送りて、瀧口は枯木の如く立ちすくみ、何處ともなく見詰むる眼の光|徒《たゞ》ならず。『二郎、二郎とは何人《なんびと》ならん』。獨りごちつゝ首傾けて暫し思案の樣《さま》なりしが、忽ち眉揚《まゆあが》り眼鋭《まなこするど》く『さては』とばかり、面色《めんしよく》見る/\變りて握り詰めし拳ぶる/\と震ひぬ。何に驚きてか、垣根の蟲、礑《はた》と泣き止みて、空に時雨《しぐ》るゝ落葉|散《ち》る響だにせず。良《やゝ》ありて瀧口、顏色|和《やは》らぎて握りし拳も自《おのづか》ら緩み、只々|太息《といき》のみ深し。『何事も今の身には還らぬ夢の、恨みもなし。友を賣り人を詐る末の世と思へば、我が爲に善知識ぞや、誠なき人を戀ひしも浮世の習と思へば少しも腹立たず』。
 立上りつゝ築垣《ついがき》の那方《あなた》を見やれば、琴の音《ね》微《かす》かに聞ゆ。月を友なる怨聲は、若しや我が慕ひてし人にもやと思へば、一|期《ご》の哀れ自《おのづか》ら催されて、ありし昔は流石《さすが》に空《あだ》ならず、あはれ、よりても合はぬ片絲《かたいと》の我身の運《うん》は是非もなし。只々塵の世に我が思ふ人の長《とこしな》へに汚《けが》れざれ。戀に望みを失ひても、世を果敢《はか》なみし心の願、優に貴し。
 千緒萬端の胸の思ひを一念「無常」の熔爐に溶《と》かし去りて、澄む月に比べん心の明るさ。何れ終りは同じ紙衣玉席、白骨を抱きて榮枯を計りし昔の夢《ゆめ》、觀じ來れば世に秋風の哀れもなし。君も、父も、戀も、情《なさけ》も、さては世に産聲《うぶごゑ》擧げてより二十三年の旦夕に疊み上げ折重ねし一切の衆縁、六尺の皮肉と共に夜半《よは》の嵐に吹き籠めて、行衞も知らぬ雲か煙。跡には秋深く夜靜《しづか》にして、亙る雁《かりがね》の聲のみ高し。

   第十四

 治承三年五月、熊野參籠の此方《このかた》、日に増し重《おも》る小松殿の病氣《いたつき》。一門の頼《たより
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