い》と肅《しめ》やかなり。
『こは思ひも寄らぬ御言葉を承はり候ものかな、御世は盛りとこそ思はれつるに、など然《さ》る忌《い》まはしき事を仰せらるゝにや。憚り多き事ながら、殿《との》こそは御一門の柱石《ちゆうせき》、天下萬民の望みの集まる所、吾れ人|諸共《もろとも》に御運《ごうん》の程の久しかれと祈らぬ者はあらざるに、何事にて御在《おは》するぞ、聊かの御不例に忌まはしき御身の後を仰せ置かるゝとは。殊更《ことさら》少將殿の御事、不肖弱年の時頼、如何《いか》でか御託命の重きに堪へ申すべき。御言葉のゆゑよし、時頼つや/\合點《がてん》參らず』。
『時頼、さては其方《そち》が眼にも世は盛りと見えつるよな。盛りに見ゆればこそ、衰へん末の事の一入《ひとしほ》深く思ひ遣《や》らるゝなれ。弓矢の上に天下を與奪《よだつ》するは武門の慣習《ならひ》。遠き故事を引くにも及ばず、近き例《ためし》は源氏の末路《まつろ》。仁平《にんぺい》、久壽《きうじゆ》の盛りの頃には、六條判官殿、如何《いか》でか其の一族の今日《こんにち》あるを思はれんや。治《ち》に居て亂《らん》を忘れざるは長久の道、榮華の中に沒落を思ふも、徒《たゞ》に重盛が杞憂のみにあらじ』。
『然《さ》るにても幾千代重ねん殿が御代《みよ》なるに、など然ることの候はんや』。
『否《いな》とよ時頼、朝《あした》の露よりも猶ほ空《あだ》なる人の身の、何時《いつ》消えんも測り難し。我れ斯くてだに在らんにはと思ふ間《ひま》さへ中々に定かならざるに、いかで年月の後の事を思ひ料《はか》らんや。我もし兎も角もならん跡には、心に懸かるは只々少將が身の上、元來孱弱の性質、加ふるに幼《をさなき》より詩歌《しいか》數寄の道に心を寄せ、管絃舞樂の娯《たの》しみの外には、弓矢の譽あるを知らず。其方も見つらん、去《さん》ぬる春の花見の宴に、一門の面目と稱《たゝ》へられて、舞妓《まひこ》、白拍子《しらびやうし》にも比すべからん己《おの》が優技《わざ》をば、さも誇り顏に見えしは、親の身の中々に恥《はづ》かしかりし。一旦事あらば、妻子の愛、浮世の望みに惹《ひ》かされて、如何なる未練の最期《さいご》を遂ぐるやも測られず。世の盛衰は是非もなし、平家の嫡流として卑怯の擧動《ふるまひ》などあらんには、祖先累代の恥辱この上あるべからず。維盛が行末守り呉れよ、時頼、之ぞ小松が一期《いちご》の頼みなるぞ』。
『そは時頼の分《ぶん》に過ぎたる仰せにて候ぞや。現在|足助《あすけ》二郎重景など屈竟《くつきやう》の人々、少將殿の扈從《こしよう》には候はずや。若年未熟《じやくねんみじゆく》の時頼、人に勝《まさ》りし何の能《のう》ありて斯かる大任を御受け申すべき』。
『否々左にあらず。いかに時頼、六波羅上下の武士が此頃の有樣を何とか見つる。一時の太平に狎《な》れて衣紋裝束《えもんしやうぞく》に外見《みえ》を飾れども、誠《まこと》武士の魂あるもの幾何かあるべき。華奢風流に荒《すさ》める重景が如き、物の用に立つべくもあらず。只々彼が父なる與三左衞門景安は平治の激亂の時、二條堀河の邊りにて、我に代りて惡源太が爲に討たれし者ゆゑ、其の遺功を思うて我名の一字を與へ、少將が扈從《こしよう》となせしのみ。繰言《くりごと》ながら維盛が事頼むは其方一人。少將|事《こと》あるの日、未練の最期を遂ぐるやうのことあらんには、時頼、予は草葉の蔭より其方を恨むぞよ』。
思ひ入りたる小松殿の御氣色《みけしき》、物の哀れを含めたる、心ありげの語《ことば》の端々《はし/″\》も、餘りの忝なさに思ひ紛れて只々感涙に咽《むせ》ぶのみ。風にあらで小忌《をみ》の衣《ころも》に漣立《さゞなみた》ち、持ち給へる珠數震ひ搖《ゆら》ぎてさら/\と音するに瀧口|首《かうべ》を擡《もた》げて、小松殿の御樣見上ぐれば、燈の光に半面を背《そむ》けて、御袖の唐草《からくさ》に徒《たゞ》ならぬ露を忍ばせ給ふ、御心の程は知らねども、痛はしさは一入《ひとしほ》深し。夜も更《ふ》け行きて、何時《いつ》しか簾《みす》を漏れて青月の光凄く、澄み渡る風に落葉ひゞきて、主が心問ひたげなり。
蟲の音《ね》亙《わた》りて月高く、いづれも哀れは秋の夕、憂《う》しとても逃《のが》れん術《すべ》なき己《おの》が影を踏みながら、腕叉《うでこまぬ》きて小松殿の門《かど》を立ち出でし瀧口時頼。露にそぼちてか、布衣《ほい》の袖重げに見え、足の運《はこび》さながら醉へるが如し。今更《いまさら》思ひ決《さだ》めし一念を吹きかへす世に秋風はなけれども、積り積りし浮世の義理に迫られ、胸は涙に塞《ふさが》りて、月の光も朧《おぼろ》なり。武士の名殘も今宵《こよひ》を限り、餘所《よそ》ながらの告別とは知り給はで、亡からん後まで頼み置かれし小松殿。御仰《おんおほせ
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