ならんとは、左衞門|如何《いか》でか驚かざるを得べき。夢かとばかり、一度は呆れ、一度は怒り、老の兩眼に溢るゝばかりの涙を浮べ、『やよ悴《せがれ》、今言ひしは慥に齋藤時頼が眞の言葉か、幼少より筋骨《きんこつ》人に勝れて逞しく、膽力さへ座《すわ》りたる其方、行末の出世の程も頼母しく、我が白髮首《しらがくび》の生甲斐《いきがひ》あらん日をば、指折りながら待侘《まちわ》び居たるには引換へて、今と言ふ今、老の眼に思ひも寄らぬ恥辱を見るものかな。奇怪とや言はん、不思議とや言はん。慈悲深き小松殿が、左衞門は善き子を持たれし、と我を見給ふ度毎《たびごと》のお言葉を常々人に誇りし我れ、今更乞食坊主の悴を持ちて、いづこに人に合《あは》する二つの顏ありと思うてか。やよ、時頼、ヨツク聞け、他は言はず、先祖代々よりの齋藤一家が被りし平家の御恩はそも幾何なりと思へるぞ。殊に弱年の其方を那程《あれほど》に目をかけ給ふ小松殿の御恩に對しても、よし如何に堪へ難き理由《わけ》あればとて、斯かる方外の事、言はれ得る義理か。弓矢の上にこそ武士の譽はあれ、兩刀捨てて世を捨てて、悟り顏なる悴を左衞門は持たざるぞ。上氣《じやうき》の沙汰ならば容赦《ようしや》もせん、性根《しやうね》を据ゑて、不所存のほど過《あやま》つたと言はぬかツ』。兩の拳を握りて、怒りの眼は鋭けれども、恩愛の涙は忍ばれず、雙頬傳うてはふり落つるを拭ひもやらず、一息つよく、『どうぢや、時頼、返答せぬかッ』。
第十
深く思ひ決《さだ》めし瀧口が一念は、石にあらねば轉《まろ》ばすべくもあらざれども、忠と孝との二道《ふたみち》に恩義をからみし父の言葉。思ひ設けし事ながら、今更に腸《はらわた》も千切《ちぎ》るゝばかり、聲も涙に曇りて、見上ぐる父の顏も定かならず、『仰せらるゝ事、時頼いかで理《ことわり》と承らざるべき。小松殿の御事は云ふも更なり、年寄り給ひたる父上に、斯かる嘆《なげき》を見參らする小子《それがし》が胸の苦しさは喩ふるに物もなけれども、所詮浮世と觀じては、一切の望に離れし我心、今は返さん術《すべ》もなし、忠孝の道、君父の恩、時頼何として疎《おろそ》かに存じ候べき。然《さ》りながら、一度人身を失へば萬劫還らずとかや、世を換へ生を移しても、生死妄念を離れざる身を思へば、悟《さとり》の日の晩《おそ》かりしに心|急《せ》かれて、世は是れ迄とこそ思はれ候へ。只々是れまで思ひ決めしまで重ね/″\し幾重の思案をば、御知りなき父上には、定めて若氣《わかげ》の短慮とも、當座の上氣《じやうき》とも聞かれつらんこそ口惜しけれ、言はば一生の浮沈に關《かゝは》る大事、時頼不肖ながらいかでか等閑《なほざり》に思ひ候べき。詮ずるに自他の悲しみを此胸一つに收め置いて、亡《なか》らん後の世まで知る人もなき身の果敢《はか》なさ、今更《いまさら》是非もなし。父上、願ふは此世の縁を是限《これかぎ》りに、時頼が身は二十三年の秋を一期に病の爲に敢《あへ》なくなりしとも御諦《おんあきら》め下されかし。不孝の悲しみは胸一つには堪へざれども、御詫《おんわび》申さんに辭《ことば》もなし、只々|御赦《おんゆる》しを乞ふ計りに候』。
濺《そゝ》ぐ涙に哀れを籠《こ》めても、飽くまで世を背に見たる我子の決心、左衞門|今《いま》は夢とも上氣とも思はれず、愛《いと》しと思ふほど彌増《いやま》す憎《にく》さ。慈悲と恩愛に燃ゆる怒の焔《ほのほ》に滿面|朱《しゆ》を濺げるが如く、張り裂く計りの胸の思ひに言葉さへ絶え/″\に、『イ言はして置けば父をさし置きて我れ面白《おもしろ》の勝手《かつて》の理窟、左衞門聞く耳持たぬぞ。無常困果と、世にも癡《たは》けたる乞食坊主のえせ假聲《こわいろ》、武士がどの口もて言ひ得る語《ことば》ぞ。弓矢とる身に何の無常、何の困果。――時頼、善く聞け、畜類の狗《いぬ》さへ、一日の飼養に三年の恩を知ると云ふに非ずや。匐《は》へば立て、立てば歩めと、我が年の積《つも》るをも思はで育て上げし二十三年の親の辛苦、さては重代相恩《ぢゆうだいさうおん》の主君にも見換へんもの、世に有りと思ふ其方は、犬にも劣りしとは知らざるか。不忠とも、不孝とも、亂心とも、狂氣とも、言はん樣なき不所存者、左衞門が眼には、我子の容《かたち》に化《ば》けし惡魔とより外は見えざるぞ、それにても見事其處に居直りて、齋藤左衞門茂頼が一子ぞと言ひ得るか、ならば御先祖の御名立派に申して見よ。其方より暇乞ふ迄もなし、人の數にも入らぬ木の端《はし》は、勿論親でもなく、子でもなし。其一念の直らぬ間は、時頼、シヽ七生までの義絶ぞ』。言ひ捨てて、襖立切《ふすまたてき》り、疊觸《たゝみざは》りはも荒々《あら/\》しく、ツと奧に入りし左衞門。跡見送らんともせず、時頼は兩手をはたとつきて、兩眼
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