と思ひ絶えしにあんなれ。何事も此の老婆《ばゞ》に任せ給へ、又しても心元《こゝろもと》なげに見え給ふことの恨めしや、今こそ枯技《かれえだ》に雪のみ積れども、鶯鳴かせし昔もありし老婆、萬《よろづ》に拔目《ぬけめ》のあるべきや』。袖もて口を覆《おほ》ひ、さなきだに繁き額の皺を集めて、ホヽと打笑ふ樣、見苦しき事言はん方なし。
 後の日を約して小走りに歸り行く男の影をつく/″\見送りて、瀧口は枯木の如く立ちすくみ、何處ともなく見詰むる眼の光|徒《たゞ》ならず。『二郎、二郎とは何人《なんびと》ならん』。獨りごちつゝ首傾けて暫し思案の樣《さま》なりしが、忽ち眉揚《まゆあが》り眼鋭《まなこするど》く『さては』とばかり、面色《めんしよく》見る/\變りて握り詰めし拳ぶる/\と震ひぬ。何に驚きてか、垣根の蟲、礑《はた》と泣き止みて、空に時雨《しぐ》るゝ落葉|散《ち》る響だにせず。良《やゝ》ありて瀧口、顏色|和《やは》らぎて握りし拳も自《おのづか》ら緩み、只々|太息《といき》のみ深し。『何事も今の身には還らぬ夢の、恨みもなし。友を賣り人を詐る末の世と思へば、我が爲に善知識ぞや、誠なき人を戀ひしも浮世の習と思へば少しも腹立たず』。
 立上りつゝ築垣《ついがき》の那方《あなた》を見やれば、琴の音《ね》微《かす》かに聞ゆ。月を友なる怨聲は、若しや我が慕ひてし人にもやと思へば、一|期《ご》の哀れ自《おのづか》ら催されて、ありし昔は流石《さすが》に空《あだ》ならず、あはれ、よりても合はぬ片絲《かたいと》の我身の運《うん》は是非もなし。只々塵の世に我が思ふ人の長《とこしな》へに汚《けが》れざれ。戀に望みを失ひても、世を果敢《はか》なみし心の願、優に貴し。
 千緒萬端の胸の思ひを一念「無常」の熔爐に溶《と》かし去りて、澄む月に比べん心の明るさ。何れ終りは同じ紙衣玉席、白骨を抱きて榮枯を計りし昔の夢《ゆめ》、觀じ來れば世に秋風の哀れもなし。君も、父も、戀も、情《なさけ》も、さては世に産聲《うぶごゑ》擧げてより二十三年の旦夕に疊み上げ折重ねし一切の衆縁、六尺の皮肉と共に夜半《よは》の嵐に吹き籠めて、行衞も知らぬ雲か煙。跡には秋深く夜靜《しづか》にして、亙る雁《かりがね》の聲のみ高し。

   第十四

 治承三年五月、熊野參籠の此方《このかた》、日に増し重《おも》る小松殿の病氣《いたつき》。一門の頼《たより
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