ゝ西に傾きて、風の音さへ澄み渡るはづき半《なかば》の夕暮の空、前には閑庭を控へて左右は廻廊[#「廻」は底本のまま]を繞《めぐ》らし、青海の簾《みす》長く垂れこめて、微月の銀鈎空しく懸れる一室は、小松殿が居間《ゐま》なり。内には寂然として人なきが如く、只々簾を漏れて心細くも立迷ふ香煙一縷、をりをりかすかに聞ゆる戞々の音は、念珠を爪繰《つまぐ》る響にや、主が消息を齎らして、いと奧床し。
やゝありて『誰かある』と呼ぶ聲す、那方《あなた》なる廊下の妻戸《つまど》を開《あ》けて徐ろに出で來りたる立烏帽子に布衣着たる侍は齋藤瀧口なり。『時頼參りて候』と申上ぐれば、やがて一間《ひとま》を出で立ち給ふ小松殿、身には山藍色《やまあゐいろ》の形木《かたぎ》を摺りたる白布の服を纏ひ、手には水晶の珠數を掛け、ありしにも似ず窶れ給ひし御顏に笑《ゑみ》を含み、『珍らしや瀧口、此程より病氣《いたつき》の由にて予が熊野參籠の折より見えざりしが、僅の間に痛く痩せ衰へし其方が顏容《かほかたち》、日頃鬼とも組まんず勇士も身内の敵には勝たれぬよな、病は癒えしか』。瀧口はやゝしばし、詰《きつ》と御顏を見上げ居たりしが、『久しく御前に遠《とほざか》りたれば、餘りの御懷《おんなつかし》しさに病餘の身をも顧みず、先刻|遠侍《とほざむらひ》に伺候致せしが、幸にして御拜顏の折を得て、時頼身にとりて恐悦の至りに候』。言ふと其儘御前に打ち伏し、濡羽《ぬれは》の鬢に小波を打たせて悲愁の樣子、徒《たゞ》ならず見えけり。
哀れや瀧口、世を捨てん身にも今を限りの名殘には一切の諸縁何れか煩惱ならぬはなし。比世の思ひ出に、夫《それ》とはなしに餘所ながらの告別《いとまごひ》とは神ならぬ身の知り給はぬ小松殿、瀧口が平生の快濶なるに似もやらで、打ち萎れたる容姿を、訝《いぶか》しげに見やり給ふぞ理《ことわり》なる。
四方山《よもやま》の物語に時移り、入日《いりひ》の影も何時《いつ》しか消えて、冴え渡る空に星影寒く、階下の叢《くさむら》に蟲の鳴く聲露ほしげなり。燭を運び來りし水干に緋の袴着けたる童《わらべ》の後影《うしろかげ》見送りて、小松殿は聲を忍ばせ、『時頼、近う寄れ、得難き折なれば、予が改めて其方《そち》に頼み置く事あり』。
第十二
一|穗《すゐ》の燈《ともしび》を狹みて相對《あひたい》せる小松殿と時頼、物語の樣、最《
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