幕末維新懐古談
その後の弟子の事
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私事《わたくしごと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)福岡県|博多《はかた》
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 ここで、少し断わって置かねばならぬことは、こういう門弟たちのことは別段興味のある話しというではなく、また事実としても、いわば私事《わたくしごと》になって、特に何かの参考となることでもありませんから、深く立ち入り、管々《くだくだ》しくなることは避けたいと思います。
 それに、最早《もはや》世を去った人などのことはとにかく、現存の人であって見れば、私と師弟関係があるだけ、毀誉褒貶《きよほうへん》の如何《いかん》に関せずおもしろくないと思いますから、批評がましいことは避けます。それに、自分では、今思い出すままを、記憶に任せてお話することで、疎密繁閑取り取りですから、その辺はそのつもりでお聞き下さい。とにかく、私の覚え帳に名前の乗ってるだけの弟子の数も五、六十名に達することで、一わたり、ざっと話して置きましょう。
 今度は山崎朝雲氏が入門された時分のことになります。朝雲氏は私の弟子となる以前に、もはや相当仕事が出来ていた人です。明治二十八年に京都で内国勧業博覧会が開かれた時、私は農商務省の方からは審査員を嘱托《しょくたく》され、個人としては彫工会の役員として当会に出張したのでしたが、その時山崎氏の作は出品されていました。氏は福岡県|博多《はかた》の人で、同地よりの出品でした(米原氏も当時は安来に帰郷していて其所《そこ》から軍鶏《しゃも》の彫刻を出品した)。山崎氏の作は養老の孝子でありましたが、地方からの出品としては、この作と、米原氏の軍鶏とが出色でした(いずれも三等賞を得た)。私は審査員として山崎氏の作を見た時、なかなか傑作であるが、惜しいことには素人離れがしておらぬ。つまり、道具の拵え方が鈍くて、水ばなれがしないので、何んとなく眠たい感がある。これが惜しいと思いました。これは地方の作家のことでやむをえないが、今一応その道の門をくぐったらさらに確かなものになるであろうと思ったことでした。
 やがて、博覧会も終りに近づいた頃、私は彫工会の事務所にまだいましたが、或る日大村西崖氏が見え(氏はその頃京都美術学校に教鞭《きょうべん》を取られていたと記憶す)、弟子を一人御丹精を願いたい。その人はこれこれこうこうという話を聞くと、私もその作品はよく知ってかなり認めていた養老の作者ですから、あの人なら、もはや弟子入りをする必要もないかと思う。ただ、道具の鈍いのは難で、素人離れのしないのは欠点といえば欠点だが、事々《ことごと》しく私へ弟子入りするほどの必要もないかと思う。まあ友達のつもりで、聞きたいことがあれば聞きにお出《い》でになれば、知ってるだけはお話もしましょう。実は私も、少し弟子を作り過ぎて持て余しの形の処|故《ゆえ》、そういう軽い気持でなら、東京へお出での時にお尋ねになってもよろしいと答えましたが、大村氏は、それではきまりが附かぬから是非とおいいで、二度目には当人の山崎氏を伴《つ》れて見えられたから、前と同様のことをいって置きました。そして帰京すると、ほどなく山崎氏は道具箱をしょって出掛けて来られ、是非弟子にしてもらいたいというので、もはや否応《いやおう》をいう処でもないからそのまま弟子ということになったのです。
 しかし、前にも申した通り、衣食住のことなど自弁出来る人はなるべく自弁にするようにしてもらうのが、自弁出来ない人を世話するために私の都合も好いので、……山崎氏は他の二、三の弟子たちと一緒に私宅の直ぐ前の小さな家を借り、自炊をしてやることになったが、もはや、大体出来ている人ですから、手を取って教えるというような余地もなく、ただ小刀が不完全ですから、自分の多年使った道具を同氏に見せますと、氏は大層感じたような顔をして見ていました。おそらく田舎と江戸|前《まえ》とは道具だけでも大分違うと思ったでありましょう。「なるほど、これでなくっちゃ」といって、非常に得心《とくしん》した風であった。
 それから、道具を新しく購《か》い、毎日々々それを磨《と》いでは柄をすげ、道具調べの方をひたすら熱心にやっていたようでありました。そうして道具が一切これで好《い》いとなった暁、初めて東京へ出てからの彫刻に取り掛かったものを見ると、これは一目見てもよく分るほど旧来のものとは異《ちが》ってほとんど生まれ代ったかの感がありました。これは、この人の作風が異なったというのではなく小刀が変ったのであるが、作品は、生き生きとして出来て、前の水離れのしない眠ったいような素人臭さは全然取れていました。
 こういう風であったから、山崎氏は私について長年稽古をしたというわけでなく、私の傍《そば》へ来て私のやっていることを見ただけで、自分で研究されたのです。それから氏には黒田清輝氏、金子堅太郎《かねこけんたろう》氏など知名の人の援助もあって、製作するのに好都合であったらしく、作品は美術協会、彫工会等においていつも好評でありました。こんなわけで、氏は上京後はさしたる苦労もなく一家を為《な》すに至り、国許《くにもと》より妻子を招き、まず順当に今日に至ったのである。

 前にも申した通り、私の弟子を取った目的は我が木彫《もくちょう》の勢力を社会的に扶植しようということにあったというよりも我が木彫芸術の衰頽《すいたい》を輓回《ばんかい》するということにあったので、したがって、旧来私どもが師匠を取った時のように年季を入れてどうするとかいう面倒なことは省いて(またそういうことをする時勢でもなかったから)、規則だったことよりも、後進子弟が自由に気ままに彫刻を勉強することの出来る方針を取ったので、いわば私の仕事場は一つの彫刻の道場で、彫刻熱心の人は遠慮なく来ておやりなさいといった塩梅《あんばい》で、弟子入りをしたからといって月謝を取るでもなく、万事、その人たちの都合のよろしいようにと私は心掛けておりました。だが、経済的の事があるので、これは、その人々の境涯次第で、或る人は少しも物質的に私の扶助を借りずに、仕事のことばかりを習った人もあれば、また或る人は、小遣いまでも心配をしたり、その親御《おやご》たちの生計《くらし》のことまで見て上げたりしたもので、少しも一様ではありませんでした。また、中には美術学校入学の目的で、その下稽古をするために一時私の弟子となった人もあり、こういう人は学校へ這入《はい》るのに都合の好いような教え方を取り、人の気質、境遇等に応じてなるべく自由な方針を取る心持で弟子をあずかったことでありました。
 そこで、ざっと前後次第不同でその人々の名をば挙げて置きます。

 後藤光岳君は、後藤貞行氏の息で、私の内弟子となったが、美術学校へ入学、卒業後一家を為《な》している。
 斎藤作吉君は、山形県鶴岡の出身で私の門下で彫刻を学び後美術学校鋳金科へ入学し、優等で卒業し後朝鮮李王家の嘱托を受けて渡鮮し、帰国後銅像その他鋳造を専門にやっております。
 高木春葉君は、美術学校の給仕《きゅうじ》であったが、日曜ごとに稽古に参り、相当物になった処で、残念ながら病死しました。
 川上邦世君は古い洋画家川上冬崖氏の孫で、私の弟子となり、美術学校卒業後今日に及んでいる。
 米原雲海氏が島根出身という処から、郷党に感化を及ぼしたのであろうか。島根県からは二、三の人が出ている。加藤景雲君、内藤伸君などで、いずれも私宅へ参って稽古を致し、今日では知名の人となっている。内藤伸氏は帝国美術院会員の栄職を負う。加藤景雲氏は島根県|能義《のぎ》郡荒島村の出身で大工の家に生まれ、父の大工を修行中彫刻を志望し、二十一歳の時出京し、私の門人となり成績良く卒業後独立し、再三帝展出品して皆入選す、その他種々の会にて入賞を得、現在私の助手として本郷区神明町の自宅から通勤しています。
 本多西雲君は深川《ふかがわ》木場《きば》の人。鹿島岩蔵氏の番頭さんの悴《せがれ》で、鹿島氏の援助で私の許《もと》へ来て稽古し一家を為《な》した。
 安田久吉君は日本橋|新右衛門町《しんえもんちょう》の安田松慶氏という仏師の次男、一時門生となり、後美術学校入学。
 佐藤理三郎君も初めは私の門生、後美術学校入学。卒業後、香川県下の工芸学校の校長となった。
 松原源蔵君(象雲と号す)は熊本県人。今日は熊本市本妙寺清正公の地内に彫刻をやっているとの事です。
 平櫛田中《ひらくしでんちゅう》君は人の知る如く日本美術院の同人である。大阪で修業をされ、中年に私の門下となった。朝雲君等と同じく手を取って教えた人ではない。出身地は備後《びんご》であったかと思います。
 山田泰雲君は元|篆刻《てんこく》師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許《ゆるし》を得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。
 前島孝吉君は幼少の時から私宅へ参り、中年米国へ渡り、今日に至るまで、まだ帰って来ません。
 明珍恒男《みょうちんつねお》君は深川|森下《もりした》の生まれ、初めは私の弟子で、後美術学校入学、卒業後、古社寺保存会の新納忠之介氏の助手として奈良に行き、古彫刻修繕の方を専《もっぱ》らやっている。
 毛利教武君は浅草小島町の生まれで、私の門下となって美術学校に入り、卒業後研究を続けられている。
 薬師寺行雲君は本所|茅場町《かやばちょう》の松薪問屋の息で、家が資産家であるから、いろいろなことを研究し盆栽、小鳥、尺八、書画のことなどいずれも多芸であるが、最後に彫刻をやろうという決心で、私の門下となった。小刀もよく切れ、原型をやっても旨《うま》く、美術協会で銀賞を得たこともあるが多病と生活に追われぬためかえって製作は少なく、今日は意に適する程度にやっているが、かつて、米国セントルイス博覧会に「日本娘」の塑造を出品して、それが彼の地の彫刻の大家の一人であるマクネエル氏の賞讃する処となり、当時米遊中であった故|岩村透《いわむらとおる》氏を介して、右の「日本娘」を譲り受けたい旨を伝言されたので、岩村氏帰朝後、その旨を私に話されたから、私から薬師寺君に話をした処、同君もよろこび、承諾しまして、ちょうど光太郎が米遊の途次でありましたから、好便に託し、右の塑造をマクネエル氏にお届けしました。すると二、三年の後、マクネエル氏から自作の婦人の胸像を右の返礼として送って来ました。同君は大いによろこび、大切に秘蔵されています。つまり交換製作といったような工合になったのです。
 竹内友樹君は富山県出身。私宅にて美術学校入学の下拵《したごしら》えをして、後に入学。卒業後、香川県の工芸学校の教師となった。
 それから、少し変った方面の人には、
 佐々木栄多君、この人は横浜の生まれで、土地で家具の彫刻などやっていた。後に私の門下に来ましたが、なかなか才気のある人で、腕もかなり達者になった頃、米国へ行き詩などを作り、詩人としてはどうか知りませんが、先年帰朝して指月という名で雑誌などに筆を執っておった。今日はまた米遊中であります。
 佐野喜三郎君、この人も文筆の人で角田浩々歌客《かくだこうこうかきゃく》と号した新聞記者の弟で、私の門下に来てなかなか前途のあった青年であったが、途中文学に代り、天声という名で物を書いておった。今日は郷里|駿河《するが》富士郡に帰っている。
 増田光城君、この人はなかなか綿密な人で作もまた驚くほど綿密であった。気の毒なことには郷里で学友と猟に行き、散弾を頭に中《あ》てられて負傷したため健康を害し、製作も前のように行かなくなった。古社寺保存会の用向きで紀州熊野に行きそのまま帰らず、今日は消息も絶えている。
 荒川嶺雲君、島根の人で、私の門を去ってから、今日も郷里にて研究を続けている。
 小泉徳次君は、鎌倉|雪《ゆき》の下《した》に住み、鎌倉彫りの方をやっている。この人は私が猿を彫った時分にいた弟子の一人です。
 根岸昌雲君、京
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