都の人で、或る人から頼まれ弟子にしたが、私の家にはいなかった。
山形の人で菅原良三(この人は中途病死)、名古屋の人で小島伝次郎、三重の人で乾丹蔵、根津のおかめそばの悴で伊藤義郎などいう弟子が相前後していました。それから細木覚次郎君は内弟子となって修業中、気の毒なことに脚気衝心《かっけしょうしん》で私宅にて亡くなりました。遠慮深い人柄な人で、私も病中何かと世話をしたが急なことで、どうしようもなく気の毒なことでありました。多くの弟子を置くとこういうような非常な場合もあり、なかなか心配なものであります。随分、前途有望の身で、途中で斃《たお》れた弟子があります。矢沢陸太郎(或る牙彫師の弟)、今岡吉蔵、角田新之助、野房義平などいう人はいずれも修業盛りで死んでしまいました。中にも野房君は鑑識家坪井晋氏の世話で十二歳の時に私の家に来て、子飼いともいうべき弟子でありましたが、三十歳末満で亡くなったのは惜しまれます。
大和田猛君は、前に話した竹内光重君等と同時代の弟子で、なかなか古く今日も彫刻でやっております。
名倉文四郎君は、両国の骨接《ほねつぎ》の息子で、下拵えを私宅でやって美術学校入学、卒業後、目を病み、職業をかえました。
まず記憶にある処を思い出して見ると、ざっとこんなことですが、さて何んの業でもその道に這入っても成功という所まで漕《こ》ぎつけるはなかなか難事であって、途中何かと故障があって一家を成すに到る人は甚だ稀《まれ》であります。私は前申す通り、多く弟子を作る目的であったが、望みの通りかなり多くの弟子は出来ました。しかし弟子の多くなるに従って何かと物入りの嵩《かさ》むは当然で、私が学校へ奉職して、谷中に引っ越した時代は、月給は三十五円でありましたが、その中から五円を割《さ》いて一人の弟子の生活費に充《あ》てるとして、次第上がりに月給が殖えても、三年目に五円位のものですから、その割に弟子も一人二人と殖え、幾分給料が多くなったとしても、次々の弟子の方へ行きますから、私の生活はやはり元の三十五円程度の暮らしで、物質的にはなかなか縁遠いことでありました。こういう風であったから、自然、前に申した平尾賛平氏などが、商人だけに物を見る目が敏《はや》く、私の境遇を察し援助して見る考えを起されたかと思われます。
それからその後、私は一時弟子を取ることを中止しました。それは私の目的も多少果たされ、また私の年もようやく老い、同時に学校の仕事も責任が重く忙しくなったりして、弟子の面倒を見る暇もなくなりましたことで、弟子のまた弟子が出来て、子弟の面倒はその方でも事足る時代ともなったので、ひとまず一段落着いたのでありました。
しかし、それでも、拠所《よんどころ》ない場合で、弟子を断わり切れぬので両三人また弟子を置くようになりました。これは私の仕事の手伝いをするものが一人もないのは不自由で、大きな材を切ったりするのは、年の若いものに限りますことで、年|老《と》ってからぽつぽつ丹精した弟子がまた多少出来ました。
田中郭雲君は、その時代の弟子で、横浜の実業家|上郎《じょうろう》清助氏の世話で来た人です。この人は元郷里山口で大工をしていたので、朝鮮に行き木工をやっていた時に、米原雲海君の作の旅人というのを写真で見て模刻したのが最初で、実は上郎清助氏が鋳金家の山本純民君をたのみ、右の模刻を私に見てもらいに来て、「これ位の仕事をするものが将来彫刻家となる素質があるものかどうでしょうか」という妙な質問を受けたので、それを見ると、相当出来ているので、「これ位なら、勉強次第物にならぬとはいえません」と答えたのが、何かの間違いで、当人へ弟子入りを承諾したように受け取られ上郎氏の細君が当人を伴《つ》れて見えたので、今さら否《いや》ともいえず、弟子にしたわけでした。この人は私の家を去ってからも上郎氏の後援もあることで、まず仕合わせの好い方の人であります。非常な勉強家で帝展へ三度出品して三度入選しました。
関野聖雲君、神奈川県の人、小供の時から物を彫ることが好きで神童のようにいわれていたのを県の書記官の秦《はた》氏に見出《みいだ》され、その人から博物館長の股野氏にたのみ、同氏より溝口《みぞぐち》美術部長を介して私の門下となったのです。当時私は、「子供の時に郷里で名を謳《うた》われたりしても、これを鼻にかけるようなことがあってはならぬ。子供の時に褒《ほ》められたものも、本当にその道の門に這入れば、その時の作など黒人《くろうと》側からは何んでもないのであるから、決して子供の時のことを頭に置いてはいけない。その頭が取れないでは決して上達しないから、能《よ》く気を附けねばならぬ」
といって聞かせました。これは本人がまだ十四歳の時で子供ですから、子供のようにいって聞かせたのであります。
それから、古い四天王をあてがって彫らして見ると、すぱすぱとこなしてなかなか達者ですが、こういう性質の子供は学校に入れ、正式に勉強させた方が好かろうと思い、美術学校へ入学させました。もっとも、これは秦源祐翁の方で都合して学資をこしらえてやったのであります。卒業後もトントン拍子に何かと都合よく行ったらしく、今日は美術学校の木彫部《もくちょうぶ》の助教授となっています。帝展に数度出品して特選になり立派な技術家です。それから、今一人、私の弟子には違いないが、家筋からいえば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当る高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。この人のことは、前に東雲師歿後の高村家のことを話した処でいい置きましたから略します。
それから、現在のことにわたりますが、ついこの間まで家にいた吉岡宗雲君は、京都|高辻《たかつじ》富小路《とみのこうじ》の仏師の悴で、今は郷里に帰っており、次に奈良多門町の大経師《だいきょうじ》の悴で、鏑木寅三郎君は紫雲と号す。これは昨年卒業し、現在府下滝の川の自宅にて勉強しつつあります。
その次に、九州|久留米《くるめ》出生で、上野義民というのは卒業をして後、今日私の工場に通勤して盛んに働いております。
また、今一人は山口県|小郡《おごおり》町仏師田坂雲斎氏の甥《おい》で、田坂源次号柏雲といい、これは最早近々卒業、なかなか勉強家で、本年の帝展出品製作も盛夏の頃より夜業に彫刻して首尾よく入選しました。
このほかに茨城県|稲田《いなだ》出生の小林三郎、これはまだ本の初めでありますから名前だけ記して置きます。
こう数えて来ると、西町時代から今日まで、随分歳月も長く、弟子としての人数も多いことで、おおよそ六十名もありますが、その中には名の落ちた人もありましょう。有為の材を抱いて若死にしたものもあります。また天性に従って一家を為《な》した人もあります。こういう人々の身の上を思えば、決してまた他事《ひとごと》でなく、自分が十二歳の時に蔵前《くらまえ》の師匠の家に行き、年季奉公を致した時から以来のことなども思い合わされ、多少の感慨なき能《あた》わずともいわばいわれます。それに師匠といい、弟子と申し、共に縁あってこそ、かくは一つ家根《やね》に住み、一つ釜《かま》の御飯をたべ、時には苦労を共にし、また楽しみをも共にし、ひたすらお互いに斯道《しどう》を励んだことで、今日といえども、私は既に七十有余の高齢に達しておりますが、その心持は昔日も今日もさらに変ったことはありません。ただ、深く思うことは、後進子弟の教養ということも、なかなかゆるがせなことではなく、これまた一つの大きい仕事だと感じていることで御座います。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
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