処で、残念ながら病死しました。
川上邦世君は古い洋画家川上冬崖氏の孫で、私の弟子となり、美術学校卒業後今日に及んでいる。
米原雲海氏が島根出身という処から、郷党に感化を及ぼしたのであろうか。島根県からは二、三の人が出ている。加藤景雲君、内藤伸君などで、いずれも私宅へ参って稽古を致し、今日では知名の人となっている。内藤伸氏は帝国美術院会員の栄職を負う。加藤景雲氏は島根県|能義《のぎ》郡荒島村の出身で大工の家に生まれ、父の大工を修行中彫刻を志望し、二十一歳の時出京し、私の門人となり成績良く卒業後独立し、再三帝展出品して皆入選す、その他種々の会にて入賞を得、現在私の助手として本郷区神明町の自宅から通勤しています。
本多西雲君は深川《ふかがわ》木場《きば》の人。鹿島岩蔵氏の番頭さんの悴《せがれ》で、鹿島氏の援助で私の許《もと》へ来て稽古し一家を為《な》した。
安田久吉君は日本橋|新右衛門町《しんえもんちょう》の安田松慶氏という仏師の次男、一時門生となり、後美術学校入学。
佐藤理三郎君も初めは私の門生、後美術学校入学。卒業後、香川県下の工芸学校の校長となった。
松原源蔵君(象雲と号す)は熊本県人。今日は熊本市本妙寺清正公の地内に彫刻をやっているとの事です。
平櫛田中《ひらくしでんちゅう》君は人の知る如く日本美術院の同人である。大阪で修業をされ、中年に私の門下となった。朝雲君等と同じく手を取って教えた人ではない。出身地は備後《びんご》であったかと思います。
山田泰雲君は元|篆刻《てんこく》師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許《ゆるし》を得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。
前島孝吉君は幼少の時から私宅へ参り、中年米国へ渡り、今日に至るまで、まだ帰って来ません。
明珍恒男《みょうちんつねお》君は深川|森下《もりした》の生まれ、初めは私の弟子で、後美術学校入学、卒業後、古社寺保存会の新納忠之介氏の助手として奈良に行き、古彫刻修繕の方を専《もっぱ》らやっている。
毛利教武君は浅草小島町の生まれで、私の門下となって美術学校に入り、卒業後研究を続けられている。
薬師寺行雲君は本所|茅場町《かやばちょう》の松薪問屋の息で、家が資産家であるから、いろいろなことを研究し盆栽、小鳥、尺八、書画のことなどいずれも多芸であるが、最後
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