というわけでなく、私の傍《そば》へ来て私のやっていることを見ただけで、自分で研究されたのです。それから氏には黒田清輝氏、金子堅太郎《かねこけんたろう》氏など知名の人の援助もあって、製作するのに好都合であったらしく、作品は美術協会、彫工会等においていつも好評でありました。こんなわけで、氏は上京後はさしたる苦労もなく一家を為《な》すに至り、国許《くにもと》より妻子を招き、まず順当に今日に至ったのである。
前にも申した通り、私の弟子を取った目的は我が木彫《もくちょう》の勢力を社会的に扶植しようということにあったというよりも我が木彫芸術の衰頽《すいたい》を輓回《ばんかい》するということにあったので、したがって、旧来私どもが師匠を取った時のように年季を入れてどうするとかいう面倒なことは省いて(またそういうことをする時勢でもなかったから)、規則だったことよりも、後進子弟が自由に気ままに彫刻を勉強することの出来る方針を取ったので、いわば私の仕事場は一つの彫刻の道場で、彫刻熱心の人は遠慮なく来ておやりなさいといった塩梅《あんばい》で、弟子入りをしたからといって月謝を取るでもなく、万事、その人たちの都合のよろしいようにと私は心掛けておりました。だが、経済的の事があるので、これは、その人々の境涯次第で、或る人は少しも物質的に私の扶助を借りずに、仕事のことばかりを習った人もあれば、また或る人は、小遣いまでも心配をしたり、その親御《おやご》たちの生計《くらし》のことまで見て上げたりしたもので、少しも一様ではありませんでした。また、中には美術学校入学の目的で、その下稽古をするために一時私の弟子となった人もあり、こういう人は学校へ這入《はい》るのに都合の好いような教え方を取り、人の気質、境遇等に応じてなるべく自由な方針を取る心持で弟子をあずかったことでありました。
そこで、ざっと前後次第不同でその人々の名をば挙げて置きます。
後藤光岳君は、後藤貞行氏の息で、私の内弟子となったが、美術学校へ入学、卒業後一家を為《な》している。
斎藤作吉君は、山形県鶴岡の出身で私の門下で彫刻を学び後美術学校鋳金科へ入学し、優等で卒業し後朝鮮李王家の嘱托を受けて渡鮮し、帰国後銅像その他鋳造を専門にやっております。
高木春葉君は、美術学校の給仕《きゅうじ》であったが、日曜ごとに稽古に参り、相当物になった
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング