丹精を願いたい。その人はこれこれこうこうという話を聞くと、私もその作品はよく知ってかなり認めていた養老の作者ですから、あの人なら、もはや弟子入りをする必要もないかと思う。ただ、道具の鈍いのは難で、素人離れのしないのは欠点といえば欠点だが、事々《ことごと》しく私へ弟子入りするほどの必要もないかと思う。まあ友達のつもりで、聞きたいことがあれば聞きにお出《い》でになれば、知ってるだけはお話もしましょう。実は私も、少し弟子を作り過ぎて持て余しの形の処|故《ゆえ》、そういう軽い気持でなら、東京へお出での時にお尋ねになってもよろしいと答えましたが、大村氏は、それではきまりが附かぬから是非とおいいで、二度目には当人の山崎氏を伴《つ》れて見えられたから、前と同様のことをいって置きました。そして帰京すると、ほどなく山崎氏は道具箱をしょって出掛けて来られ、是非弟子にしてもらいたいというので、もはや否応《いやおう》をいう処でもないからそのまま弟子ということになったのです。
しかし、前にも申した通り、衣食住のことなど自弁出来る人はなるべく自弁にするようにしてもらうのが、自弁出来ない人を世話するために私の都合も好いので、……山崎氏は他の二、三の弟子たちと一緒に私宅の直ぐ前の小さな家を借り、自炊をしてやることになったが、もはや、大体出来ている人ですから、手を取って教えるというような余地もなく、ただ小刀が不完全ですから、自分の多年使った道具を同氏に見せますと、氏は大層感じたような顔をして見ていました。おそらく田舎と江戸|前《まえ》とは道具だけでも大分違うと思ったでありましょう。「なるほど、これでなくっちゃ」といって、非常に得心《とくしん》した風であった。
それから、道具を新しく購《か》い、毎日々々それを磨《と》いでは柄をすげ、道具調べの方をひたすら熱心にやっていたようでありました。そうして道具が一切これで好《い》いとなった暁、初めて東京へ出てからの彫刻に取り掛かったものを見ると、これは一目見てもよく分るほど旧来のものとは異《ちが》ってほとんど生まれ代ったかの感がありました。これは、この人の作風が異なったというのではなく小刀が変ったのであるが、作品は、生き生きとして出来て、前の水離れのしない眠ったいような素人臭さは全然取れていました。
こういう風であったから、山崎氏は私について長年稽古をした
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