に彫刻をやろうという決心で、私の門下となった。小刀もよく切れ、原型をやっても旨《うま》く、美術協会で銀賞を得たこともあるが多病と生活に追われぬためかえって製作は少なく、今日は意に適する程度にやっているが、かつて、米国セントルイス博覧会に「日本娘」の塑造を出品して、それが彼の地の彫刻の大家の一人であるマクネエル氏の賞讃する処となり、当時米遊中であった故|岩村透《いわむらとおる》氏を介して、右の「日本娘」を譲り受けたい旨を伝言されたので、岩村氏帰朝後、その旨を私に話されたから、私から薬師寺君に話をした処、同君もよろこび、承諾しまして、ちょうど光太郎が米遊の途次でありましたから、好便に託し、右の塑造をマクネエル氏にお届けしました。すると二、三年の後、マクネエル氏から自作の婦人の胸像を右の返礼として送って来ました。同君は大いによろこび、大切に秘蔵されています。つまり交換製作といったような工合になったのです。
竹内友樹君は富山県出身。私宅にて美術学校入学の下拵《したごしら》えをして、後に入学。卒業後、香川県の工芸学校の教師となった。
それから、少し変った方面の人には、
佐々木栄多君、この人は横浜の生まれで、土地で家具の彫刻などやっていた。後に私の門下に来ましたが、なかなか才気のある人で、腕もかなり達者になった頃、米国へ行き詩などを作り、詩人としてはどうか知りませんが、先年帰朝して指月という名で雑誌などに筆を執っておった。今日はまた米遊中であります。
佐野喜三郎君、この人も文筆の人で角田浩々歌客《かくだこうこうかきゃく》と号した新聞記者の弟で、私の門下に来てなかなか前途のあった青年であったが、途中文学に代り、天声という名で物を書いておった。今日は郷里|駿河《するが》富士郡に帰っている。
増田光城君、この人はなかなか綿密な人で作もまた驚くほど綿密であった。気の毒なことには郷里で学友と猟に行き、散弾を頭に中《あ》てられて負傷したため健康を害し、製作も前のように行かなくなった。古社寺保存会の用向きで紀州熊野に行きそのまま帰らず、今日は消息も絶えている。
荒川嶺雲君、島根の人で、私の門を去ってから、今日も郷里にて研究を続けている。
小泉徳次君は、鎌倉|雪《ゆき》の下《した》に住み、鎌倉彫りの方をやっている。この人は私が猿を彫った時分にいた弟子の一人です。
根岸昌雲君、京
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