く修業をされた。君の三年は他の人たちの六、七年にも相当しよう。もはや国へ帰っても、さして彫刻家として恥ずかしからぬと思われる。それにつけて帰国する前に何か目星《めぼ》しい作をしては如何……」
こういうような話をしました。米原氏もかねがねそう思っていたであろう。やがて一つの大作を初めました。それは衣川《ころもがわ》の役を主題としたもので、源義家と安倍貞任《あべのさだとう》とが戦中に立て引きをする処、……例の、衣の楯《たて》はほころびにけりという歌の所であります。薄肉で横二尺以上、縦四尺以上でなかなかよく出来ました。これは彫工会であったか、美術協会であったか、ちょっと忘れましたが、いずれかへ出して好評で、銀賞を取りました。そして安田善次郎氏が百何十円かで買い取りました。当時の百円以上の製作は珍しい方であった。
米原氏はこの手柄を土産にして国へ帰りました。私は思うに、この事あるも決して偶然ではない。……というのは、米原氏の出生地は出雲であって、松平不昧《まつだいらふまい》侯や小林如泥《こばやしじょでい》、荒川鬼斎などの感化が土地の人の頭に残っているので、美術的に自然心が養われている。おそらく米原氏もそういう感化を受けて来た一人であろうと思ったことでありました。そうでなければ、なかなか一介の大工さんが志を立て、京都、奈良の古美術を見て歩き他日の成業を期する基を作るなどいう心掛けはなかなか起るものでないと思うことであります。米原氏が相当功を収めて帰国しましたことは、また島根県下の美術を愛好する青年たちにも影響したと見えて、その後続々島根県人が上京して彫刻の方へ身を入れたのを見たことであります。
もう一つついでながら、米原氏のことにていって置きたいことがあります。私が先日話した猿を彫っていた時分、ちょうどそれは総領娘を亡くしまして、いろいろ物入りをして、大分内証が窮していたのでありますが、自然そういうことが弟子たちにも感じられていたことか。しかし、私は精々《せいぜい》弟子の張り合いのために、腕の相当出来るものには、一年も経つと、手伝いをさせた手間として幾分を分ち、また出品物が売約されたり、御用品になったりした時には、その半額を本人にやったりして、私自身の素志に叶《かな》うよう心掛けたことで、弟子の中にても一際《ひときわ》目立って腕の出来ていた米原氏に対しては、仕事の上か
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