ら、一層心を配っていたのでありますが、氏は心のたまか[#「たまか」に傍点]な人で、そういう時に得たものを無駄に使わず何かの役に立てるつもりで貯えてあったものと見えます。或る日、氏は人なき処で私に向い、
「先生、近頃お見かけしていますに、先生も御不幸があったりしてなかなかお骨が折れるように思われます。差し出るようですが、私は少し位は持っています。どうか御融通なすって下さい」
との事。私は米原氏の日頃からの気性は知っているが、この際こういわれてうれしく思いました。
「どうも君の心づかい、うれしく思います。お察しの通り、私は今困っている。弟子の君から、そういう心づかいをされては倒《さか》さま事だが折角のお志|故《ゆえ》、では辞退せず暫時《しばし》拝借することにしよう」
といって百円を融通してもらいました。この時は本当に心掛けの好い人だと思ったことでありました。この融通してもらったものは、農商務省から、猿を納めた時に下った金で返済しましたが、弟子から恩を着たこと故、特に申し添えて置く訳である。
 氏は大正十四年四月十七日年五十六で歿しました、実に惜しみても余りありです。

 それから小石川水道端の木平何某の悴《せがれ》の木平愛二という人が弟子になった。弁当持ちで毎日通っていた。器用過ぎの気の多い人で、何んということなくやっていました。
 こんな移り気な弟子があるかと思うと、大阪天王寺町の由緒《ゆいしょ》ある仏師の弟で田中栄次郎という人が内弟子になっていました。なかなかな変り者で、また極《ごく》ずいの勉強家で、その丹念なことに到《いた》っては驚くばかりでした。後に大阪に帰り、京阪地方で彫刻家の牛耳《ぎゅうじ》を取るようになりました。宅にいる間四、五年修業を積み、年が明けて後、この人は、手間の掛かる限りを尽くして十二|神将《じんしょう》の中の波夷羅《はいら》神将を二尺以上にこしらえ、美術協会へ出品しました。この作は三年間も掛かったのでその気の長いことは無類で、一つの木に取りつくと、気の済むまでは何時《いつ》までも取っ附いていじっているので、何処までも、突きつめて行く精力はえらいものでありました。私はこれには感心しましたので、波夷羅神将の出来上がった時、百五十円の売価《うりね》を附けることが不当とは少しも思いませんでした。当時一個の木彫りで百五十円という価格は飛び切りで、かつて山
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