時に触れ、こういうことをしばしば見受ける。どうも米原氏は権幕《けんまく》が違う。仕事に取っ附き方が他《ひと》と異っている。何んということなしに一生懸命、真剣勝負という態度が見えますので、私も教えかたを考えて、彫刻製作の順序を踏んで最初から一々規則的に仔細に教え込んで行きました。この教え方は、道も長いし、迂遠《うえん》なようであるが、落ちつく処へ落ち附くとかえって歩みは速《すみ》やかで、どんどんと捗取《はかど》るのであります。だから習《おそ》わる方になってもこの習わり方がかえって近道なので、急がば廻れで、遠国から出て来て、三年の修業というようにあらかた日限を切って自分の仕事を物にしよう、目的を果そうという真剣態度の人には、これがかえって苦しいようだが楽な法で、また廻り遠いようだが近い道であるのでありました。
米原氏はすっかり、その製作順序を順序的にのみ込み、今いうように見物をするでもなく、仕事場を自分の居所《いどころ》にして、彫り物と首っぴきで、一向専念に勉強されたのであった。
その時分のことで、米原氏は元大工さんであったから、大工の方のことも無論出来るが、或る時、下駄をこしらえた。日和《ひより》下駄でもなく、足駄《あしだ》でもない中位の下駄、……晴雨兼帯というので実に奇妙なものだが、これはなかなか経済的、一つあれば随分長い間天気にかかわらず役に立つ……ただ、この新案の下駄の歯で時々雨上がりの庭をほじくられたのには弱ったが……、それは昔の一笑話で、今日では氏もこうず[#「こうず」に傍点]になって、なかなか庭を下駄歯でほじくられるようなことはない――笑い話はさて置いて、出来る人は世話の焼けないもので、米原氏へ或る一つの手本を与えると、それを手本に模刻が出来る。薄肉とか半肉とかで、此所《ここ》はこうと一ヶ所|極《き》まり処を教えると、一を聞いて十を知るという方で、その次に同様の趣の処はちゃんと前例によって旨くやってある。それで一、二年の間にはめきめき腕が上がって私の手伝いも立派にするようになりました。これはひとえに勉強の功でありますが、またその人の素質によることでありました。
さて、歳月流るる如く、米原氏が出雲言葉丸出しで私の玄関へ参ってから、早《はや》三年になりました。三年という約束だから、或る日、私は米原氏に向い、
「君は、もうなかなか出来る。三年の間まことによ
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