《ぐい》などをやって大丈夫という所で、牛車を通したような訳で、手間の掛かること夥多《おびただ》しく、そのため運賃は以前約束した四十円どころでなく、その六、七倍となりました。それから糟尾川《かすおがわ》を船に積んでそれから道中長々と花川戸まで出すことにして、後藤君らは帰って来ましたが、花川戸の河岸まで来るのがまた容易でなく、随分日数を重ねまして、総領娘が亡くなる少し前、八月の半ば過ぎにやっと河岸へ着いたという報《しら》せを受けました。
それから、木を谷中の家へ引き取りましたが、庭に抛《ほう》り出して置くほかにしようもなく、大きな四ツの蒲鉾なりの木が転がったままで雨被いを冠《かぶ》っておりました。
しかしこの材木は後でなかなか皆さんの重宝にはなりました。
政府から四百円の補助を私は受けたけれども、この材木のために半額の二百円ほどとられました。木代は三円ですが、面倒の交渉に使った旅費、学校用品代、橋の修繕費、運賃などで二百円以上を掛けたのは、先の四十円の予算とは大変な番狂わせでありました。
右の材の一つ分は、竹内先生が使い、も一つは山田鬼斎氏にお譲りし、も一つは二、三の先生が分けられ
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