幕末維新懐古談
栃の木で老猿を彫ったはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)木彫《もくちょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)年|老《と》った
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総領娘を亡くしたことはいかにも残念であったが、くよくよしている場合でもなく、一方には学校という勤めがあるので取りまぎれていました。
すこし話が前後へ転じますが、その年の春、農商務省で米国シカゴ博覧会に出品のことについて各技術家に製作を依嘱していました。私にも木彫《もくちょう》としての製作を一つ頼むということであった。
この出品については、政府が奨励をしました。しかし政府出品ではなく、出品は個人出品ですが、奨励策として、個人の製作費を補助したのであります。たとえば私が八百円のものをこしらえて出すとすると、その価格の半額を政府で補助し、もしそれが売約になればその代金も補助費もすべて作家の方へくれるので、その上出品は作家の名でするのでありますから、作家側に取っては大変に都合の好いことでありました。当時はまだ政府当局がこれ位の程度に補助していたものであった。しかしこの時限り補助という事はやみましたし右のような都合で私も何か製作しなければならない。何を作ろうかと考えましたが、その以前から栃《とち》の木を使って何かこしらえて見たいという考えを持っていました。この栃の木という材は、材質が真白で、木理《もくめ》に銀光りがチラチラあって純色の肌がすこぶる美しいので、かつてこの材を用いて鸚鵡《おうむ》を作り、宮内省の御用品になったことがある。それで今度も栃の木の良材を探し、純色で銀色の光りのある斑《ふ》を利用して年|老《と》った白猿をこしらえて見ようと思いました。
その頃は私は専ら動物に凝っていた時代で、いろいろ動物研究をやっていた結果こういう作を考えたのであった。
そこで、丸太河岸の材木屋を尋ねて見ると、栃の木の良材はあるにはあるが、何分にも出し場が悪いので、買い入れを躊躇《ちゅうちょ》しているのですが、材木はすこぶる立派で、直径《さしわたし》六尺から七尺位のものがある。ただ、困るのは運賃が掛かるのと、日数がかかることで、商売になりませんから手を出さずにいますという話で、その場所をも教えてくれました。
それで私はこの事を後藤貞行君に話すと、それは一つ直接当って見ようではありませんか、あなたがお出でになるなら、私もお手伝いかたがた同行しましょう、というので、私は栃の木の買い出しにその地へ参ることになりました。
其所《そこ》は栃木県下の発光路《ほっこうじ》という処です。鹿沼《かぬま》から三、四里奥へ這入《はい》り込んだ処で、段々と爪先《つまさき》上がりになった一つの山村であります。私と後藤氏とは上野発の汽車で出掛けたが、汽車を乗り違えたため宇都宮《うつのみや》に一泊し、翌早朝鹿沼で下車し、それから発光路へ向いました。
時は三月で、まだ余寒が酷《きび》しく、ぶるぶる震えながら鹿沼在を出かけましたが、村端《むらはず》れに人力車屋《くるまや》が四、五人|焚火《たきび》をして客待ちをしております。私たちは、彼らの前を通れば、必ず向うから声をかけて乗車をすすめることと思っていたのに、くるま屋は何ともいわず、通り過ぎても黙っていますので、少し当てがはずれ、こっちから立ち戻って言葉を掛け、発光路まで幾金《いくら》で行くねと聞きますと、発光路って何処《どこ》だいと一人の車夫はいってるのには驚きました。も一人の車夫は発光路ってこれから四、五里もある山奥だ、道が悪くてとても大変だよといっている。そんな処はおれは御免|蒙《こうむ》りだといったり、道が遠くて骨が折れるからまあよそうなどと、とても話になりそうでなく、強いて乗ろうといえば足元を見られるに決まっているので、後藤君は軍人だけに健脚で「何も車に乗るほどのことはありません。発光路まで歩きましょう」と歩きかけますので、私は少々困ったが、まだ若い時のこと「では歩きましょう」と二人でてくてく歩きはじめました。
山にはまだ雪が白く谿間《たにま》などには残っており、朝風は刺すように寒く、車夫のいった通り道もわるい。もうよほど歩いたから、発光路も直《じき》だろうと、道程《みちのり》を聞いて見ると、ちょうど半途《はんと》だというので、それからまた勇気を附けて歩きましたが、歩いても、歩いても発光路へは着かない。段々爪先上がりの急になって道は嶮《けわ》しく、左手に谿間があって、それが絶壁になっており、水の落ちる音がザアザアと聞える。
「どうもえらい処ですね。……しかし絵師などには描《か》けそうな処だ」
など話しながら、足は疲労《くたび》れても、四方《あたり》の風景の佳《い》いのに気も代って、漸々《よ
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