うよう》発光路に着いたのがその日の午後三時過ぎでありました。
家屋といっても家屋らしい家はなく、たった一軒飯屋兼帯の泊まり宿があって、その二階に私たちはひとまず落ち附きました。それから湯に這入《はい》り、食事をしましたが、食べるものは何もない。何かあるかというと牛があるというので、この山奥に牛肉は珍しい。それを買って来てくれといって煮てもらって箸《はし》をつけたが、とても歯も立たないので驚きました。
さて、それから、材木屋に掛け合うことになって、その男が来ました。名は確か長谷川栄次郎とかいったと覚えていますが、立派に姓名はあっても、逢って見るとまるで山猿同然のような六十四、五の爺《じい》さん……材木屋といっても、杣《そま》半分の樵夫《きこり》で、物のいいようも知らないといった塩梅《あんばい》ですから、こういうものを相手にして掛け合って、話が結局旨く運ぶかどうか、甚だ危ぶまれましたが、もう此処《ここ》まで出掛けて来ているので、話を進めるより道なく、段々右の男に当って見ると、栃の木の佳いのはいくらもある、それらは大概|崖《がけ》に生《は》えているのだが、小判形《こばんがた》で直径《さしわたし》七尺以上のものがあるという。それで、直段《ねだん》は何程《いくら》かと聞くと、三円だというので、その安いのにはまた驚きました。
直径《さしわたし》七尺有余もある栃の木といえば、その高さもおおよそ察せられましょう。枝が五間十間と張り拡《ひろ》がって、山の半腹を掩《おお》わんばかり、仰いでは空も見えないほどでありましょう。そういう大木でしかも材質が上等で彫刻の材料になろうというのが一本ただの三円とは、まるで偽《うそ》のようなことですが、それでも、宿屋の主婦に相場を聞いて見ると、少し高いという話。あの老爺《おやじ》さんは確か二円五十銭で買ったはず、五十銭|儲《もう》けるとはひどい、もっと負けさせなさいなどいっています。しかし、三円なら値ぎりようもありません。木の当りもこれで附いたので、その日は其所《そこ》に泊まり、翌朝実地に木を見ることにしました。
この土地では栃の木は切り倒して焚《た》いております。……栃木県というのは栃の木が多いから附けられた名か、それは知りませんが、何んでもこの附近一帯の山には栃の木は非常に沢山あります。しかも喬木《きょうぼく》が多いのですが、その代り田地はない処。畠《はたけ》はあるが、畠には一面に麻を植えてあります。鹿沼は麻の名産地といわれる位の処で、垣根も屋根の下葺《したぶ》きもすべて麻柄《おがら》を使ってあって、畠は麻に占められているから、五穀類は出来ません。それで住民は何を食物《くいもの》にしているかというと、栃の実を食べている。栃の実を取って一種の製法で水に洒《さら》して灰汁《あく》を抜き餅に作って食用にしている。それで、栃の木の所有は田地の所有と同じ格で、嫁入り婿取りなどに、栃の木何本を持って行くとかいって、数の多いのが有福の証となった位、栃の木はつまり食い料でありますから、この近在に栃の木の多いのも道理《もっとも》のことであります。
しかし、今は栃餅のはなしもなくなりました。その後、足尾銅山が開けて交通が便利になって以来、栃餅を食うことはやみました。銅山の仕事で、土地にも金銭が落ちる。銅を積み出した荷の帰りは米を積んで来ますから、五穀はふんだんに這入って来るので、余り旨くもない栃餅を食べるものはなくなった次第です。こうなると、栃は厄介《やっかい》なものになってしまい、場ふさげで、値もなくなったから、切り倒して焚《た》いてしまって、後へ杉苗とか桐苗を植えるような始末で、栃の木は貰い手があればただでもくれたい位なものになっているのですから、東京から、ただでもいらないものを金出して買いに来るとは、物数寄《ものずき》な人もあったものというような顔を宿屋の主婦がしていたのも道理《もっとも》、一本三円でも高いといった言葉も本当のことでありました。
さて、翌日実地検分に出掛けました。
山猿のような例の老爺《おやじ》が先に立って私と後藤君とは山道に掛かりましたが、左の方は断崖絶壁……下を覗《のぞ》いて見ると、幾十丈とも分らぬ谷底の水が紺青《こんじょう》色をして流れている。それを見ると、もう一足も先に出ないような気がします。というのはその断崖の山の半腹から道がその絶壁の谷へと流れていて、それを我々は攀《よ》じているのですから、ひょっと踏みはずせば、千尋の谷底へ身体《からだ》は落ちて粉微塵《こなみじん》となるわけです。しかし、山猿のような人間には、何んでもないこと、木の枝|岩角《いわかど》などに縋《すが》って、私たちの手を引っ張り上げてくれなどして、漸々《だんだん》木のある場所まで登りましたが、さあ、今度は降りる
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