のに大変……少し降りかけた処に一本の栃の木が天を摩《ま》して生《は》えている。
「これだ。お前さんに売ろうという木は……」
と老爺は指《ゆびさ》しました。
なるほど、話の如く、それは実に立派な栃の木で、幾千年をも経たかと思われる。
「どうも素晴らしい樹《き》ですな」
と後藤氏も幾抱《いくかか》えもあろうというその幹を見ております。
老爺が寸法を取ると、廻りが二丈余、差し渡し七尺幾寸かある。
「どうだね。七尺からある。三円は安いもんだ」と老爺は独語《ひとりごと》のようにいっております。全くその通りで私は三円でその樹を買い取りました。
さて、木は買いましたが、これを東京へ運ぶのが大仕事……どういうことにするかというと、今は三月ですから、五月までには浅草の花川戸《はなかわど》の河岸《かし》まで着けるという。その運賃はと聞くと、三十円位で出せるという。まずそれ位。多少相違はあっても大したことはないということ。それから立木を切り倒し、六尺ずつ二つに切って、これを中通《なかとお》しをして四ツにする。その木挽《こびき》の代が十円ほど。木代、木挽代、運賃引ッ括《くる》めてずっと高く積ってまず四十五円位のものであろうと私は見ました。先方で金額の半金を入れてもらわなければ仕事に取り掛かれないといいますから、二十円の手金《てきん》を打って、五月までにはきっと間違いなく花川戸の河岸へ着けてくれるように約束しました。
しかし、この約束はどうも当てにも何もならぬと思いました。前金の受け取りを取っても相手は山猿同様……まるで治外法権のような山村のことで、当の相手が人別《にんべつ》にもないような男である。その他のものでも、この近在に住んでいるものは杣《そま》で、半分ばくち打ち見たような人間ばかり……こういう人を相手に約束をして、五月という日限をした処で、当てにするものが無理だという位のものですから、私たちはいかにも便《たよ》りなく思いましたが、もう仕掛けた仕事ですから、今さら手の引きようもなく、五月までは待って見る気でこの山を降りて東京へ帰って来ました。
案の条、五月が来ても何んの音沙汰《おとさた》もない。
「高村さん、発光路《ほっこうじ》の一件はどうなりましたね」
後藤君は五月の中頃《なかば》になって私に聞きました。
「何んの音沙汰もありません。相手があれですから、当てにはなりませんよ」
私は答えました。
「では、私が一遍発光路へ行って見て来ましょう」
「まあ、も少し待って見ていましょう。五月一杯だけは……」
そういって、もう音信《たより》はないものと思いながらも約束は約束だから待っていますと、先方も満更《まんざら》打っちゃって置いたのではなく、五月の末になって、長谷川栄次郎からたよりがありました。それで、今度は後藤君に出掛けてもらうことにして、氏は二度目に発光路へ参りました。
そうすると、いろいろ難儀なことが出来て、実に閉口したと帰って来てから後藤君が話された処によると、木挽《こびき》は木を四ツにしたのです。直径《さしわたし》六、七尺のものを長さ六尺ずつ二つに切り、それを縦に二つに割ったのです。これは持ち運びのために重量を減らすつもりで、切り倒したその場でやった仕事だが、これがかえって仕事の邪魔になって大変面倒だったのです。というのは二つ割りにしたために木の形が蒲鉾型《かまぼこがた》になったから、崖《がけ》から下へ転《ころ》がり落とせなくなったのです。丸太のままで置けば、両手で押してもごろごろと下まで落とせたものを、蒲鉾型になったので、どうしようもない。二人や三人では動かすことも出来なくなった。しようがないから人足を頼んで、いろいろ仕掛けをして、ずるずると下へ辷《すべ》り卸したということですが、こういうことには経験のありそうなはずの山の人間でも智慧《ちえ》が働かなかったか二つに割ってしまった。またわれわれにもこういうことに経験があったら、前に注意をして置けばよかったのに、経験のないため、飛んだ無駄骨《むだぼね》を折ることになりました。
さて、山から麓《ふもと》までは、どうやら辷り落としたが、其所《そこ》から往来まで持ち出すのがまた大変……山|際《ぎわ》には百姓家の畠があって、四、五月から物を植え附けてある。その畠を転がさねば往来へ木は出ません。
「損害は賠償するから、どうか、畠を通して下さい」
後藤君は畠の持ち主に頼んだが、どの持ち主も不承知。これには後藤君もハタと当惑しました。
「どうも面倒なことが出来て困りました」
といって後藤君は帰って来ました。
訳は、百姓が畠を荒されるので、木を通さないということ。いろいろ相談しました結果、今度発光路へ行く時は学校用品を買って持って行こうということにしました。それはこうした山村で学
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