地はない処。畠《はたけ》はあるが、畠には一面に麻を植えてあります。鹿沼は麻の名産地といわれる位の処で、垣根も屋根の下葺《したぶ》きもすべて麻柄《おがら》を使ってあって、畠は麻に占められているから、五穀類は出来ません。それで住民は何を食物《くいもの》にしているかというと、栃の実を食べている。栃の実を取って一種の製法で水に洒《さら》して灰汁《あく》を抜き餅に作って食用にしている。それで、栃の木の所有は田地の所有と同じ格で、嫁入り婿取りなどに、栃の木何本を持って行くとかいって、数の多いのが有福の証となった位、栃の木はつまり食い料でありますから、この近在に栃の木の多いのも道理《もっとも》のことであります。
 しかし、今は栃餅のはなしもなくなりました。その後、足尾銅山が開けて交通が便利になって以来、栃餅を食うことはやみました。銅山の仕事で、土地にも金銭が落ちる。銅を積み出した荷の帰りは米を積んで来ますから、五穀はふんだんに這入って来るので、余り旨くもない栃餅を食べるものはなくなった次第です。こうなると、栃は厄介《やっかい》なものになってしまい、場ふさげで、値もなくなったから、切り倒して焚《た》いてしまって、後へ杉苗とか桐苗を植えるような始末で、栃の木は貰い手があればただでもくれたい位なものになっているのですから、東京から、ただでもいらないものを金出して買いに来るとは、物数寄《ものずき》な人もあったものというような顔を宿屋の主婦がしていたのも道理《もっとも》、一本三円でも高いといった言葉も本当のことでありました。

 さて、翌日実地検分に出掛けました。
 山猿のような例の老爺《おやじ》が先に立って私と後藤君とは山道に掛かりましたが、左の方は断崖絶壁……下を覗《のぞ》いて見ると、幾十丈とも分らぬ谷底の水が紺青《こんじょう》色をして流れている。それを見ると、もう一足も先に出ないような気がします。というのはその断崖の山の半腹から道がその絶壁の谷へと流れていて、それを我々は攀《よ》じているのですから、ひょっと踏みはずせば、千尋の谷底へ身体《からだ》は落ちて粉微塵《こなみじん》となるわけです。しかし、山猿のような人間には、何んでもないこと、木の枝|岩角《いわかど》などに縋《すが》って、私たちの手を引っ張り上げてくれなどして、漸々《だんだん》木のある場所まで登りましたが、さあ、今度は降りる
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