すから、出来得る限りは用品も撰んでやるという工合で、その頃のことでそう大した入費というでもないけれども、困難な盛りの時分であったから、一分金《いちぶきん》、一|匁《もんめ》の群青を買うにしても私にはかなりこたえました。
谷中へ越した時は、もはや娘は十四、五歳で、師匠は、まだ肩上げも取れぬけれども、絵の技倆《うで》は技倆だからといって許《ゆるし》をくれました。当人は好きな道|故《ゆえ》、雨が降っても雪の日でも決して休まず、谷中へ転宅してかなり遠い道を通学致し、昼夜絵筆を離さぬという勉強で、余り凝っては身体《からだ》の毒と心配もしましたが、勉強するは上達の基《もとい》で、強《た》って止めもせず好きに任せておりましたが、師匠に素月という名を頂いて美術協会の展覧会にも二度ほど出品をしました。すると、この娘《こ》の絵に何か見処《みどころ》があったか、物数寄《ものずき》の人がその絵を買って下すったり、またその絵が入賞したりしました。それから或る時はまた御前揮毫《ごぜんきごう》を致したこともあり、次第に人の注目を惹《ひ》くようになって、親の身としては喜ばしく思っておりました。
それが、二十五年
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