は思われました。家内が長唄《ながうた》を少しやるので、それで、家《うち》でも母がチョイチョイ稽古をつけたりしましたのを私が聞いていて、どうもそう感じられました。当人も三味線を取る時はどうも気が進まないようにも見えました。それで手習いとか、本を読む方のことをさせて見ると、よろこんで筆を取り書物《しょもつ》に向いまして、普通《なみ》には出来るようであります。それで、この娘は三味線のような遊芸はやめさせた方が好かろうと三味線をやめさせました。これはまだ西町時代のことで本人は七歳位の時です。それから娘が筆を持つ事が好きという処から、その頃竹町の生駒様の屋敷内にいた狩野|寿信《としのぶ》という絵師のお宅へ稽古に上げました。この先生は探幽《たんゆう》の流れを酌《く》んで、正しい狩野派の絵をよく描《か》かれた人で、弟子にも厳格な親切な人でありました。娘は今度は自分から進んで稽古を励み、まだ手ほどきをしてもらってから間もないが、先の三味線の方とは違って、どうも性に合っているように思われました。親の慾目《よくめ》かは知れませんが、師匠のお手本によって描いたものを見ましても能《よ》くまあこんなに描けるものだと思ったこともありまして、子供の前ではいえないことだが、家内《かない》とも「今度はどうも本人に合ったようだ。今からこれ位に行けば末頼母《すえたのも》しい」など話してまことに可愛ゆく、出来得る限りはこの娘の天性を発揮させてやろうと存じたことでありました。
 しかし、師匠の寿信という人は、なかなかその道に手堅く、稽古をおろそかにしませんところから、その稽古はなかなか金銭《かね》が掛かりました。……というのは別のことではなく、絵を描く材料に金銭が掛かるのであって、まず何よりも絵具《えのぐ》が入るのです。たとえば、金銀、群青《ぐんじょう》、緑青《ろくしょう》など岩物《いわもの》を平常《ふだん》使うので、それも品を吟味して最初から上等品を用いさせました。これは稽古の際でも楽な絵具で稽古するようではいざという段になって本当の仕事が出来ないから、平生《ふだん》の稽古にも本式で掛からせるという師匠の教授法なのです。で、朱にしても、生臙脂《しょうえんじ》にして、墨一|挺《ちょう》、面相《めんそう》一本でもなかなか金銭が掛かります。しかし金銭が掛かるといって、師匠の趣意はいかにも道理《もっとも》のことで
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