すから、出来得る限りは用品も撰んでやるという工合で、その頃のことでそう大した入費というでもないけれども、困難な盛りの時分であったから、一分金《いちぶきん》、一|匁《もんめ》の群青を買うにしても私にはかなりこたえました。
谷中へ越した時は、もはや娘は十四、五歳で、師匠は、まだ肩上げも取れぬけれども、絵の技倆《うで》は技倆だからといって許《ゆるし》をくれました。当人は好きな道|故《ゆえ》、雨が降っても雪の日でも決して休まず、谷中へ転宅してかなり遠い道を通学致し、昼夜絵筆を離さぬという勉強で、余り凝っては身体《からだ》の毒と心配もしましたが、勉強するは上達の基《もとい》で、強《た》って止めもせず好きに任せておりましたが、師匠に素月という名を頂いて美術協会の展覧会にも二度ほど出品をしました。すると、この娘《こ》の絵に何か見処《みどころ》があったか、物数寄《ものずき》の人がその絵を買って下すったり、またその絵が入賞したりしました。それから或る時はまた御前揮毫《ごぜんきごう》を致したこともあり、次第に人の注目を惹《ひ》くようになって、親の身としては喜ばしく思っておりました。
それが、二十五年の九月九日にぽこりとやられました。今日《こんにち》では、もっと治療の方法もあったことかと思いますが、尽くせるだけは手を尽くしたけれども、とうとう奪《と》られてしまったのは、いかにも残念で、私は一時|落胆《がっかり》して、何をするにも手が附かぬようなことでありました。西町で母を亡くしまして、私の成功の緒《ちょ》に就《つ》く処までは是非存命でいてもらいたいと思った甲斐《かい》もなく、困難中に逝《ゆ》かれたことと、今度また折角苦しい中から、これまで育て上げた娘《こ》をほんの仮初《かりそめ》の病で手もなく奪《と》られましたことは、私に取っては二つの不幸でありました。私は幼少の時から苦労の中に生まれている身だから、自分の運不運はさして気にも止めはしませんが、この二つの事は身にこたえました。その前下谷西町で明治十六年に次女うめ子を五歳で驚風《きょうふう》のために亡くしましたが、これは間もなく長男の光太郎が生まれましたので幾分かまぎれました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4
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