十銭、ということです。老人は大変気に入っていられる。
それで、私もこれは好《い》いと思い、早速行って見ますと、なるほど、これは格好、往来に向いて出格子《でごうし》の窓などがあり、茶屋町の裏町になった横丁だが四方も物静かで、父の申す如く彫刻家が住むにはいかにも誂《あつら》え向きという家ですから、早速話を決めました。
その頃のことで、別に敷金を取るでもなく、大屋さんへちょっと手土産《てみやげ》をする位で何んの面倒もなく引き移りました。
さて、段々と住んでいると、どうも普通の素人《しろうと》の住まった家とは趣が異《ちが》う。いきなり、客間があったり仕事部屋があったりする処は妙だと、近所の人に聞いて見ると、これまでは牙彫師の鵜沢柳月《うざわりゅうげつ》という人が住んでいたのだということでした。
この人は先に彫工会の成り立ちの処で話しました谷中派の方の親方株の牙彫師で、弟子の三、四人も置いてなかなか盛んにやっていた人である。庭のお稲荷さんもその人がこしらえたものということ……それで、妙だと思った仕事場のことなども分りました(この家の持ち主は御徒町の料理店|伊予紋《いよもん》であった)。家で仕事をするにも都合がよく、学校へ通うにはなおさら、昼食に一走り家へ帰ったとしても授業時間には間に合う位近いので、まことに気安くて都合がよかったのでした。老人が、どうしてこんな工合の好《い》い家を見附けたものか、谷中の奥で、しかも通りからは横へ這入った人の気の附きそうもない処を、よく探し出したものと、何時《いつ》もながら老人の眼の届くのを感心して家のものにも話したことでありました。この引っ越しは二十三年であったと思います。
この谷中時代に総領娘|咲子《さくこ》を亡《な》くしました。亡くなった日は明治二十五年の九月九日でした。まことに残念で、今日でもこればかりはどうも致し方もないことではあるが、残り惜しく思われます。娘は十六歳でありました。すべて子供は皆同じで、いずれに愛情のかわりは御座いませんけれども、この総領娘は私が困苦していた盛りに手塩《てしお》にかけただけに、余計に最愛《いと》しまれるように思われます。
こういう苦しい時代であったために芸事も多分に仕込むことも出来ませんでしたが、初めは三味線をやらせました。ところがどうもこれはその娘《こ》の器《うつわ》でないかのように私に
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