幕末維新懐古談
馬専門の彫刻家のこと
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)公《おおやけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)山田|鬼斎《きさい》先生

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ふき[#「ふき」に傍点]
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 そこで、彫刻製作となるのですが、岡倉校長は、主任は高村光雲に命ずるということであり、それから山田|鬼斎《きさい》先生を担任とすることになった。すると、ここで一つ主任としての私に問題が起って来たのであります。

 それは、何かと申すと、楠公は馬上であるが、馬の産地も分らぬということ……出来上がる大きさはというと、馬上で一丈三尺、馬の鼻から尾の先までが一丈八尺というこの大きな馬をまず自分が手掛けてやるとしてどうであるか、これはなかなか容易なことではないと申さねばならぬ……そこで当然思い出すのは後藤貞行氏のことです(後藤氏のことは前に狆の話のところでちょっと話して置きました)。後藤氏は、馬の後藤という位馬専門の人である。それ故、いよいよ手を附けるとなれば、是非とも後藤氏に相談してその助力を借りなければならない。「私は今楠公の馬をやり初めた。どうか御助力をたのみます」といえば氏は喜んで相談に乗ってくれましょう。また頼まずとも、先方から話を聞けば乗り出して来ても手伝いましょう。もしそうなるとすると、私は、自分で不安心なものを、人に手伝わせ、その助力を借りて製作するということになる。そうして、それが仮りに上手に出来たとして手柄は誰のものになるかということを考えると、後藤氏の骨折りは全く蔭のものになってしまう。どうで後藤氏の骨折りを借りなければならぬものとすれば、私の考えとして、どうも後藤氏の骨折りを殺すということは情において忍び得られぬところである……とこう私は考えたのであった。
 で、これは後藤氏をハッキリと公《おおやけ》のものにして表面へ立たせたいという考えが私の肚《はら》に決まったのでありました。これは当人の後藤氏の思惑《おもわく》は分らないが、私の良心としてはこう切に思われる。この事が単に私用的の仕事で、馬を彫るということならばとにかく、宮内省献納品で、主題は楠公、馬の大きさは前申した通りの大作、これほどのものを作るのであるから、私は、日頃から、後藤氏の口癖にもいってる言葉を思い出してさえも、これは打っ棄《ちゃ》って置くべきことでないと思ったのであります。氏は、「自分は、多少の余財を作って等身大の馬を製《こしら》えて招魂社にでも納めたい」というのが平素《ふだん》の願望で、一生に一度は等身大以上の大作をやりたいという希望は氏が常に私に話されていたのであります。こういう志を持っている人を蔭に使って、その出来栄《できばえ》がよかったとして、後藤氏の立場はどうなるか……こう思うと、もう私は矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、この事は是非とも解決しなければならないと心を決し、その晩、急に岡倉覚三先生方へ出掛けて行ったのでありました。

 その頃の岡倉先生宅は根岸《ねぎし》であった。夜分の来訪、何事かと岡倉さんは思ってお出でのような面持《おももち》で私を迎えました。
「今夜は一つお願いがあって参りました」
 そういう私の意気組みが平生《ふだん》と違っていたと見え、
「そうですか、何かむずかしいことですか」と氏はほほ笑《え》んでいられた。
「実は、楠公製作の件で是非御願いのことがあって出ました。これは充分|聴《き》いて頂きたい……私は今度、主任の役をお受けしたのでありますが、馬上の楠公というので、差し当って馬の製作に取り掛からねばなりません。ついては、馬のことは、私は専門的に深く研究しておりません。普通の仕事であれば、また製作のしようもありますが、御承知の通り今度の馬は容易でありません。私一個の腕としてこの大物《おおもの》を立派にやり上げるということはお恥ずかしいが不安心であります……といって私の片腕となって立派にこの馬をやりこなせる人物は差し当り学校には見当りません……」
「なるほど、御もっともな話で……それは困りましたね。これは容易なことではありますまい」
「……学校には、馬の専門知識をもった人を見当りませんが、ここに私の親友に後藤貞行という人があります。この人は馬専門の彫刻家であります。……」
というところから、私は、後藤貞行氏の人為《ひととなり》と馬について研究苦心された概略《あらまし》を岡倉校長へ紹介しました。

 後藤貞行氏は、元は和歌山県の士族で、軍馬局へ勤めている。馬の調査のため奥州地方へ長らく出張して軍馬の種馬について研究し、馬のことといえばその熱心は驚くばかりで、目をねむっていてただ触《さわ》っただけでも馬の良否《よしあし》が分るというほどに馬のことには詳しい。そういう馬熱心のために馬の絵を描きたいと思い立って日本画の稽古《けいこ》をしたが、どうも日本画では思うように行かない処から、油画の稽古を初めました。これは日本画では肉の高低、蔭日向《かげひなた》などが思うように行かないので、さらに洋画をやり出したのですが、洋画でも絵は平面のもので、そっくり丸写しに実物を写すには工合が悪いので、今度は彫刻をやり出しました。これは彫刻なら立体的に物の形が現われて都合が好いと考えたからであります。それで牛込《うしごめ》辺の鋳物師の工場で、蝋作りを習って、蝋を捻《ひね》って馬をこしらえました。
 まだ、未熟ではあるが、馬には通暁した人ですから、急所々々の間違いはないものを作った。後藤氏は彫刻ということよりも、馬その物を作るのが本意で、馬の標本になるようなものを作ろうというのが目的で、自分の考え通り一匹の馬を作り上げ、それを鋳物にしてもらう段になったのですが、不幸にしてふき[#「ふき」に傍点]損《そこな》って蝋を流してしまったので、折角苦心してこしらえた馬の形は跡形もなくなってしまった。それには後藤氏も実に驚いた。こんな迂遠《うえん》なことでは便《たよ》りにならん、どうしても、木で彫るより仕方がないというので、東京中の仏師屋を歩き廻って木彫りの稽古をつけてくれる師匠を探して見たが、何処《どこ》でも「あなたのような年輩の方が今から彫刻を初めるといってもそれは大変、子供の時から年季を入れて稽古をしても、まず物になるには十年も掛かる……どうもこれは思い切りなすったがよかろう」などと相手になってくれませんので、後藤氏も大いに弱ったがふと私のことを思い出した。
 というのは、私が大島如雲《おおしまじょうん》氏の宅に原型の手伝いをしていた時代(この事は前に話しました)、この後藤氏が如雲氏の工場へ見学に来られて、私が其所《そこ》で木彫りをやっているのを見て、自分にも心があるから、つい、私と近づきになっていた。その事を思い出したので、西町に住まっている私をわざわざ尋ねて来られた次第であった。
 或る日、私が仕事をしていると、がちゃがちゃサアベルの音をさせて人が這入《はい》って来たから私は戸籍調べが来たのかと思って見ると、その人は顔馴染《かおなじみ》のある後藤貞行さんであった。
「突然にやって来ましたわけは、今日は立ち入って御願いしたいことがありますので」との話。理由を聞くと、木彫りの手ほどきをして頂きたいとの事で、今日までいろいろ馬のことに苦心し、馬の姿を造形的に現わしたいので、日本画、洋画、蝋作りまで試みたが、どれも物にならぬので、人からは移り気だの飽きッぽいのといろいろ非難されますが、それは自分の目的を突き留める所へ参らんので、段々に変更して来たわけでありますが、今度こそ木彫りならば自分の初念がこれで達せられることが分ったので、木彫りをやりたいと切望していろいろ師匠を求めたけれども、相手になってくれる人がなく、困《こう》じ果てた結果、あなたのことを思い出して、今日《こんにち》参上したわけで、どうか一つ折り入っての御願いですが、彫刻を教えて下さい。しかし、私のような年輩でも一生懸命になれば物の形が彫れるものでありましょうか、あるいはまた到底手をつけることも出来ないものでありましょうか……と後藤氏は心の誠《まこと》を籠《こ》めてのお話。その話を聞いている私はお気の毒とも感心とも思い、
「それは後藤さん、余人なら知らぬこと、あなたには出来ますよ。あなたは馬だけ彫ろうというのですから。これは出来ます。あなたには馬が頭にある。木を彫ることさえ出来れば自然馬は彫れるわけです。お望み通り教えて上げましょう」
 こういいますと、後藤氏は大喜び。翌日から弁当持ちで通って来られたので、私は木取《きどり》を教えて上げた。
 暫く稽古をしている中に、後藤さんの馬が出来ました。これは規則的の、馬としては非難のない馬が出来た。後藤氏は、お蔭で馬が出来ましたといって、さも満足そうに礼をいわれ、それから一層気乗りがして来て勉強されて、いろいろ馬を彫られた処、その事が軍馬局に分り、主馬寮に分り、宮内省に分りして、後藤は馬を彫ることは上手だという評判が立って、後には馬専門の彫刻家となりましたので、今上《きんじょう》天皇がまだ御六歳の時、東宮《はるのみや》様と仰せられる頃御乗用の木馬までもこの人が作られたというような次第でありました。
 しかし、まだこれという大作はしない。それで、一生の仕事として、等身大の馬を製作し、招魂社にでも納めたいというのが日頃の願望……これほど、馬ということには熱心な人であったのであります。

 こういう一条の逸話を、私は岡倉校長へ後藤氏の名を紹介するためにお話したのであった。そこでまた言葉を改め、
「後藤貞行という人は右の如き人物。この度《たび》私が楠公の馬を彫刻するとなれば、従前の関係上、必ず助力をしてくれることでありますが、しかし、その助力を蔭のものにして、私が表面に立って、美事に馬が出来たとして、後藤氏の力がそれに多分に加わっているにもかかわらず、後藤氏は全く縁の下の力持ちになってしまうわけであります。その事を私は考えますと、どうしても後藤氏の手柄を殺すことは忍び兼ねますので、どうか後藤氏を公に使うようなことに、貴下の御斡旋《ごあっせん》を願います。これは私の折り入っての御願いであります……」
という意味を私は岡倉先生へ申し述べました。
「いかにも御尤《ごもっとも》です」
と岡倉さんはいわれ、
「では、早速、その後藤という人を傭《やと》いましょう」と快く承諾されたのでありました。私はこの言葉を聞いた時は、まことに延々《のびのび》するほど嬉《うれ》しく思いました。
 岡倉覚三先生という方は、実に物解りの好い方であって、こういう場合、物事の是非の判断が迅《はや》く、そして心持よく人の言葉を容《い》れられる所は大人の風がありました。なお、岡倉先生は後藤氏への給料のことなど尋ねられたので、目下、軍馬局で、三十円ほど取ってお出《い》でだから、三十五円位も出せばどうでしょうといいますと、それ位のことなら必ず都合が附きます。早速雇いましょう。と、案じたよりは容易に話が決まりましたので、私は早速この旨を後藤氏へ通じると、後藤さんは飛びかえるほど嬉しがりました。

 そこで、後藤氏は馬の方の担任ということで傭われて、私が主任でやることになって、後藤氏は毎日学校へ通って来ました。
 ところが、先申す通り、楠公の馬の出所が分りません。木曾、奥州、薩摩《さつま》などは日本の名馬の産地であるが何処《どこ》の産地の馬とも分らんので、日本の馬の長所々々を取ってやろうということに一決しました。
 しかし、馬ばかりでなく、楠公という本尊があることで、前申す通り大勢が関係をしている。彫刻になってからは石川光明氏も手伝われる。新海竹太郎氏は当時後藤氏の宅に寓《ぐう》していたので、後藤さんが伴《つ》れて来る。私の方からも弟子たちを引っ張って行くという風で、なかなか大仕事であった。

 その頃は、まだ、美術学校には塑像はありません時代で、原型は木彫《もくちょう》です。山田鬼斎氏は楠
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