となど尋ねられたので、目下、軍馬局で、三十円ほど取ってお出《い》でだから、三十五円位も出せばどうでしょうといいますと、それ位のことなら必ず都合が附きます。早速雇いましょう。と、案じたよりは容易に話が決まりましたので、私は早速この旨を後藤氏へ通じると、後藤さんは飛びかえるほど嬉しがりました。

 そこで、後藤氏は馬の方の担任ということで傭われて、私が主任でやることになって、後藤氏は毎日学校へ通って来ました。
 ところが、先申す通り、楠公の馬の出所が分りません。木曾、奥州、薩摩《さつま》などは日本の名馬の産地であるが何処《どこ》の産地の馬とも分らんので、日本の馬の長所々々を取ってやろうということに一決しました。
 しかし、馬ばかりでなく、楠公という本尊があることで、前申す通り大勢が関係をしている。彫刻になってからは石川光明氏も手伝われる。新海竹太郎氏は当時後藤氏の宅に寓《ぐう》していたので、後藤さんが伴《つ》れて来る。私の方からも弟子たちを引っ張って行くという風で、なかなか大仕事であった。

 その頃は、まだ、美術学校には塑像はありません時代で、原型は木彫《もくちょう》です。山田鬼斎氏は楠
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