言葉を改め、
「後藤貞行という人は右の如き人物。この度《たび》私が楠公の馬を彫刻するとなれば、従前の関係上、必ず助力をしてくれることでありますが、しかし、その助力を蔭のものにして、私が表面に立って、美事に馬が出来たとして、後藤氏の力がそれに多分に加わっているにもかかわらず、後藤氏は全く縁の下の力持ちになってしまうわけであります。その事を私は考えますと、どうしても後藤氏の手柄を殺すことは忍び兼ねますので、どうか後藤氏を公に使うようなことに、貴下の御斡旋《ごあっせん》を願います。これは私の折り入っての御願いであります……」
という意味を私は岡倉先生へ申し述べました。
「いかにも御尤《ごもっとも》です」
と岡倉さんはいわれ、
「では、早速、その後藤という人を傭《やと》いましょう」と快く承諾されたのでありました。私はこの言葉を聞いた時は、まことに延々《のびのび》するほど嬉《うれ》しく思いました。
 岡倉覚三先生という方は、実に物解りの好い方であって、こういう場合、物事の是非の判断が迅《はや》く、そして心持よく人の言葉を容《い》れられる所は大人の風がありました。なお、岡倉先生は後藤氏への給料のことなど尋ねられたので、目下、軍馬局で、三十円ほど取ってお出《い》でだから、三十五円位も出せばどうでしょうといいますと、それ位のことなら必ず都合が附きます。早速雇いましょう。と、案じたよりは容易に話が決まりましたので、私は早速この旨を後藤氏へ通じると、後藤さんは飛びかえるほど嬉しがりました。

 そこで、後藤氏は馬の方の担任ということで傭われて、私が主任でやることになって、後藤氏は毎日学校へ通って来ました。
 ところが、先申す通り、楠公の馬の出所が分りません。木曾、奥州、薩摩《さつま》などは日本の名馬の産地であるが何処《どこ》の産地の馬とも分らんので、日本の馬の長所々々を取ってやろうということに一決しました。
 しかし、馬ばかりでなく、楠公という本尊があることで、前申す通り大勢が関係をしている。彫刻になってからは石川光明氏も手伝われる。新海竹太郎氏は当時後藤氏の宅に寓《ぐう》していたので、後藤さんが伴《つ》れて来る。私の方からも弟子たちを引っ張って行くという風で、なかなか大仕事であった。

 その頃は、まだ、美術学校には塑像はありません時代で、原型は木彫《もくちょう》です。山田鬼斎氏は楠公の胴を彫りました(山田氏は福井県の人でまだ年は若かったが、なかなか腕が勝《すぐ》れ、仕事の激しい人でありました。明治二十三年の博覧会に大塔宮を作って出品し好評であった。惜しいかな故人となられました)。それから私は顔を彫りました。後藤氏は馬をやりました。私は楠公の顔をやって甲《かぶと》を冠《かぶ》せた。石川さんも手伝いました。竹内久一先生はどうであったか、少しは手伝われたかも知れません。とにかく学校総出でやった仕事で、主任は私、担任が鬼斎氏および後藤氏で、それから、鋳物の主任が岡崎雪声氏でありますが、岡崎氏は原型には関係がありません。鋳造だけです。
 以上が、楠公製作についての事実であります。



底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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