》が分るというほどに馬のことには詳しい。そういう馬熱心のために馬の絵を描きたいと思い立って日本画の稽古《けいこ》をしたが、どうも日本画では思うように行かない処から、油画の稽古を初めました。これは日本画では肉の高低、蔭日向《かげひなた》などが思うように行かないので、さらに洋画をやり出したのですが、洋画でも絵は平面のもので、そっくり丸写しに実物を写すには工合が悪いので、今度は彫刻をやり出しました。これは彫刻なら立体的に物の形が現われて都合が好いと考えたからであります。それで牛込《うしごめ》辺の鋳物師の工場で、蝋作りを習って、蝋を捻《ひね》って馬をこしらえました。
まだ、未熟ではあるが、馬には通暁した人ですから、急所々々の間違いはないものを作った。後藤氏は彫刻ということよりも、馬その物を作るのが本意で、馬の標本になるようなものを作ろうというのが目的で、自分の考え通り一匹の馬を作り上げ、それを鋳物にしてもらう段になったのですが、不幸にしてふき[#「ふき」に傍点]損《そこな》って蝋を流してしまったので、折角苦心してこしらえた馬の形は跡形もなくなってしまった。それには後藤氏も実に驚いた。こんな迂遠《うえん》なことでは便《たよ》りにならん、どうしても、木で彫るより仕方がないというので、東京中の仏師屋を歩き廻って木彫りの稽古をつけてくれる師匠を探して見たが、何処《どこ》でも「あなたのような年輩の方が今から彫刻を初めるといってもそれは大変、子供の時から年季を入れて稽古をしても、まず物になるには十年も掛かる……どうもこれは思い切りなすったがよかろう」などと相手になってくれませんので、後藤氏も大いに弱ったがふと私のことを思い出した。
というのは、私が大島如雲《おおしまじょうん》氏の宅に原型の手伝いをしていた時代(この事は前に話しました)、この後藤氏が如雲氏の工場へ見学に来られて、私が其所《そこ》で木彫りをやっているのを見て、自分にも心があるから、つい、私と近づきになっていた。その事を思い出したので、西町に住まっている私をわざわざ尋ねて来られた次第であった。
或る日、私が仕事をしていると、がちゃがちゃサアベルの音をさせて人が這入《はい》って来たから私は戸籍調べが来たのかと思って見ると、その人は顔馴染《かおなじみ》のある後藤貞行さんであった。
「突然にやって来ましたわけは、今日は立ち入
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