のものを材料にして決めたようなことでありました。馬具なども同様で、厚総《あつぶさ》を掛けた方が好かろうという説を出した人がありましたけれども、どうも戦乱の世の中に厚総も感心しないだろうというので、この説は取りませんでした。川崎千虎先生が中心になって、この辺のことは実に熱心に研究されたのでありました。
太刀《たち》は、加納、今村両先生の調べで割合正確なものになりましたけれども、それも楠公|佩用《はいよう》の太刀が分ったのではありませんでした。太刀物の具がはっきりしないばかりでなく、第一、楠正成という人は大兵《だいひょう》であったか、小兵《こひょう》だったか、それすら分りません。少なくも記録に拠所《よりどころ》がなく、顔などは面長《おもなが》であったか、丸顔《まるがお》か、また肥えていたか、痩《や》せていたか、そういうことが一切分らんのでした。しかし、楠公は古今の武将の中でも智略に勝《すぐ》れていた人であったことは争われぬ歴史上の事実でありますから、智の方面に傑出した相貌《そうぼう》の顔に作りました。総じて智謀勝れたる軍略家は神経の働きの強く鋭い人でなくては出来ないことで、多くそういう側
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