それで、その図案を参酌《さんしゃく》して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、元弘《げんこう》三年四月、足利尊氏《あしかがたかうじ》が赤松《あかまつ》の兵を合せて大いに六波羅《ろくはら》を破ったので、後醍醐《ごだいご》天皇は隠岐国《おきのくに》から山陽道に出でたまい、かくて兵庫へ還御《かんぎょ》ならせられました。そのみぎり、楠公は金剛山の重囲を破って出で、天皇を兵庫の御道筋《おみちすじ》まで御迎え申し上げたその時の有様を形にしたもので、畏《おそ》れ多くも鳳輦《ほうれん》の方に向い、右手《めて》の手綱《たづな》を叩《たた》いて、勢い切った駒《こま》の足掻《あが》きを留めつつ、やや頭を下げて拝せんとするところで御座います。この時こそ、楠公一代において重き使命を負い、かつまた、最も快心の時であり、奉公至誠の志天を貫くばかりの意気でありましたから、この図を採ったわけでありますが、これらの事は岡倉校長初め、諸先生のひたすら頭を悩まされた結果でありました。

 さて、いよいよ彫刻に取り掛かるというまでには、なかなか時日を要し、また多人数の考案を経て来たものであって、決して
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