《かぶと》は信貴山の宝物になっている兜がどうしても楠公の兜と定めて置かなければ、それ以上その他に頼《たよ》るものがないというので、それを基として採ったのであります。けれどもこの兜には前立《まえだて》がないのです。柄《つか》が残っているので、前立は何んであるかと詮索《せんさく》をして見ると、これは独鈷《とっこ》であるということです。が、よく調べると、独鈷ではなくて、剣《つるぎ》の柄であろうという川崎先生の鑑定でありました。それから、また一方に同氏の調べた中に大塔宮護良《だいとうのみやもりなが》親王の兜の前立が楠公の兜の前立と同様なものであろうという考証が付いたのです。ちょうど時代も同時、親王と楠公との縁故も深し、前立のない処に柄が残っている所を見ると、剣の柄と相当するから、楠公の前立は剣であろう、ということに極《き》まりました。
 それから、鎧《よろい》ですが、これは漠《ばく》としてほとんど拠所《よりどころ》がありません。大和《やまと》河内地方へ行けば、何処《どこ》にも楠公の遺物と称するものはいくらもあるけれども、一つも確証のあるものはない。皆後世人の附会したものばかりです。それで常明山という所に楠公の腹巻きというものが一つあったそうで、これは正《まさ》しく当時のものであるし、何様《なにさま》、楠公の遺物ではないかと川崎氏はさらに調査を進めまして、皮を剥《は》がして見ると、中から正平《しょうへい》六年六月という年号が出て来ました。そうして見ると、楠公が没した後の製作だということが分ったので、川崎氏も失望したと同氏が当時私に話されたことを記憶していますが、万事、こういうような訳で、これは正しく楠公着用の鎧だと決定するに足る鎧はついに見つかりませんのでした。しかしまずこの腹巻きは近いものに相違なかろうとそこらを参酌したのでありますが、しかしまた馬上であって腹巻きはおかしいという説を出す人もあって、それもまた道理《もっとも》ということで、結局、鎧は大袖ということに決定しましたのですから、実際は、これに拠《よ》るというよりどころはなかったのであります。これは参考とすべきものがなかったから致《いた》し方《かた》ありません。ただし、楠公没後のものはしようがないが、それ以前、鎌倉時代より元弘年間にわたったものなら参考にして差《さ》し支《つか》えなかろうというので、楠公の服装はその辺
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング