それで、その図案を参酌《さんしゃく》して製作に掛かった楠公像の形は一体どういう形であるかといいますと、元弘《げんこう》三年四月、足利尊氏《あしかがたかうじ》が赤松《あかまつ》の兵を合せて大いに六波羅《ろくはら》を破ったので、後醍醐《ごだいご》天皇は隠岐国《おきのくに》から山陽道に出でたまい、かくて兵庫へ還御《かんぎょ》ならせられました。そのみぎり、楠公は金剛山の重囲を破って出で、天皇を兵庫の御道筋《おみちすじ》まで御迎え申し上げたその時の有様を形にしたもので、畏《おそ》れ多くも鳳輦《ほうれん》の方に向い、右手《めて》の手綱《たづな》を叩《たた》いて、勢い切った駒《こま》の足掻《あが》きを留めつつ、やや頭を下げて拝せんとするところで御座います。この時こそ、楠公一代において重き使命を負い、かつまた、最も快心の時であり、奉公至誠の志天を貫くばかりの意気でありましたから、この図を採ったわけでありますが、これらの事は岡倉校長初め、諸先生のひたすら頭を悩まされた結果でありました。

 さて、いよいよ彫刻に取り掛かるというまでには、なかなか時日を要し、また多人数の考案を経て来たものであって、決して一人や二人の考えから決まったものではないのであります。すなわち大勢の先生方がそれぞれ受持を分けて研究調査されたのであった。
 まず歴史家として有名な黒川真頼《くろかわまより》先生が楠正成《くすのきまさしげ》という歴史上の人物について考証された(今泉雄作《いまいずみゆうさく》先生も加わっていました)。それから服装のことは歴史画家で故実に詳しい川崎千虎《かわさきちとら》先生が調べました。先生はこの調査のためにわざわざ河内国《かわちのくに》へ出張し、観心寺《かんしんじ》および信貴山《しぎさん》、金剛寺その他楠公に関係ある所へ行って甲冑《かっちゅう》を調べたのです。また加納夏雄先生と今村|長賀《ちょうが》先生とは太刀《たち》のことを調べました。
 川崎千虎先生は河内へ行っていろいろと楠公の遺物について調べましたが、結果はどうもハッキリ分らないということであった。何故《なぜ》、楠公の遺品などが世に存在していないかと申すと、楠氏滅亡の後は子孫に至るまで世を憚《はばか》る場合が多かったので、楠氏伝来の品などは隠蔽《いんぺい》したというような訳で、それではっきり分らないということでありました。しかし兜
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