し続いたかと思うと、早くも六月に這入り、梅雨期となって毎日の雨天で人出がなくなりました。いずれも盛り場は天気次第の物ですから、少し曇っても人は来ない。またこの梅雨が長い。ようやく梅雨《つゆ》が明けると今度は土用で非常な暑さ、毎日の炎天続き、立ち木一本もない野天のことで、たよる蔭《かげ》もなく、とても見物は佐竹原へ向いて来る勇気がありません。ことに漆喰塗りの大仏の胎内は一層の蒸し暑さでありますから、わざわざそういう苦しい中へ這入ってうで[#「うで」に傍点]られる物数寄《ものずき》もないといったような風で、客はがらりと減りました。
そういう間《ま》の悪い日和《ひより》に出逢《でく》わして、初日から半月位の景気はまるで一時の事、後はお話にもならないような不景気となって、これが七月八月と続きました。もっとも、これは大仏ばかりでなく佐竹原の興業物飲食店一般のことで、どうも何んともしようがありませんでした。
私は、この容子を見ると、自分の暇潰《ひまつぶ》しにいい出した当人で仕方もないが、どうも、野見さん父子《おやこ》に対して気の毒で、何んとも申し訳のないような次第でありましたが、さりとて、今さ
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