幕末維新懐古談
佐竹の原へ大仏を拵えたはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鉄筆《てっぴつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)胎内|潜《くぐ》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しほん[#「しほん」に傍点]
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私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しました通り高橋鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆《てっぴつ》で筒《つつ》を刻《ほ》って職業としていました。上野広小路の山崎(油屋)の横を湯島《ゆしま》の男坂《おとこざか》の方へ曲って中ほど(今は黒門町《くろもんちょう》か)に住んでいました。この人が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありました。これは男坂寄りの方に住んでいる。何処《どこ》となく顔の容子が狐に似ているとかで、こんこんさんと綽名《あだな》をされた人で、変り者でありましたがこの人も定次郎氏と一緒に朝夕遊びに来ていました。お互いに職業は違いますが、共に仕事には熱心で話もよく合いました。ところで、もう一人、やはり高橋氏の隣りに住んでる人で野見長次という人がありました。これは肥後熊本の人で、店は道具商で、果物《くだもの》の標本を作っていました。枇杷《びわ》、桃、柿《かき》などを張り子で拵え、それに実物そっくりの彩色《さいしき》をしたものでちょっと盛り籠に入れて置き物などにもなる。縁日などに出して相当売れていました。この野見氏の親父《おやじ》さんという人は、元、熊本時代には興業物に手を出して味を知っている人でありましたから、長次氏もそういうことに気もあった。この人も前の両氏と仲善《なかよ》しで一緒に私の宅へ遊びに来て、互いに物を拵える職業でありますから、話も合って研究しあうという風でありました。
或る日、また、四人が集まっていますと、相変らず仕事場の前をぞろぞろ人が通る。私たちの話は彼の佐竹の原の噂《うわさ》に移っていました。
「佐竹の原も評判だけで、行って見ると、からつまらないね。何も見るものがないじゃありませんか」
「そうですよ。あれじゃしようがない。何か少しこれという見世物《みせもの》が一つ位あってもよさそうですね。何か拵えたらどうでしょう。旨《うま》くやれば儲《もう》かりますぜ」
「儲ける儲からんはとにか
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