御徒町《なかおかちまち》で、私の宅からは初めての横町を右に曲り、これを真直に行くと生駒《いこま》屋敷の裏門となる。西町の通りを真直に浅草の方へ向いて行けば左側が七軒町、右が小島町で今の楽山堂病院のある通りとなる。竹町《たけちょう》は佐竹の原が形を変えて市街となったので、それで竹町というのであって、佐竹の屋敷を取り払った跡が佐竹の原です。東南に堀があって、南方は佐竹の表門で、その前が三味線堀《しゃみせんぼり》です。東方が竹町と七軒町の界《さかい》でこの堀が下谷と浅草の界だと思います。七軒町の取っ附きまでが一丁半位、南北は二丁以上、随分佐竹屋敷は広かったものです。それが取り払われて原となってぼうぼうと雑草が生《は》え、地面はでこぼこして、東京の真ん中にこんな大きな野原があるかと思う位、蛇や蛙《かえる》やなどの巣で、人通りも稀《まれ》で、江戸の繁昌《はんじょう》が打《ぶ》ち毀《こわ》されたままで、そうしてまた明治の新しい時代が形にならない間の変な時でありました。

 すると、誰の思い附きであったか。この佐竹の原を利用して、今でいうと一つの遊園地のようなものにしようという考え……それほど大仕掛
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