たる作品を得ることは困難でござりますという意味を概略《あらまし》陳述して、若井兼三郎の作家に対する好意を御披露に及んだ所、聖上にも御嘉納《ごかのう》あらせられた旨を松尾氏はありのままに若井氏に物語ったのであった。
「そういう訳でありましたか。それは私も無上の光栄。文句をいう所ではありません。目出たいことであった」とそこは物分りの早い江戸ッ児の若井氏、さらりとしたもので、私に向っても祝意を述べなどされ、この事件は美しく解決されることでありました(松尾氏は御説明を申し上げた時、濤川惣助氏の無線七宝も、フランス人の頼みで、日本に無線七宝がまだ出来ていないということは日本の技術の上の名誉に関するというので、同氏は非常に努力され、またフランス人は費用を惜しまず、作家を援助したことをも申し上げ、共に美術界には奨励の必要ということを奏し上げたとの事を私は承りました)。
かくて、宮内省からは、矮鶏の代価として百円をお下げになった。
協会からそれを若井氏の手に渡した。
すると、四、五日の後、若井氏は突然私の谷中《やなか》の宅に訪ねて来られました(私は、その頃は谷中|茶屋町《ちゃやまち》に転居して
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