幕末維新懐古談
矮鶏の製作に取り掛かったこと
高村光雲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稀《まれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|御意《ぎょい》に
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 かれこれ批評を聞いたり、姿形を研究したりしている間に、一月余りも経ってしまいましたので、いよいよ取り掛かることにしました。
 材は桜です。その時分はまだ桜の材で上等のものが沢山あったが現今では甚だ稀《まれ》です。南部の方から出るのが良材であります。まず、雄鶏《おんどり》の方から初めました(木彫りの順序は鑿打ちで形を拵え、鑿と小刀で荒彫り、それから小作り、仕上げとなる)。無駄をしていたわけではないが、前述のような次第で思わず時日を費やしたので、随分精出してやりましたけれども、その年の十二月の末になってやっと小作りが出来た位でした(仕事の順序からいうと、この小作りというのは荒彫りと仕上げの間となる)。十二月の末といえば若井氏と約束の日限でありますから、当然《あたりまえ》ならば全部出来上がっていなければならない所であるが、器械的の仕事と違ってこういう側の仕事は、そう日限通りに参るわけには行かない。それも自分で怠惰《なまけ》ていればとにかく、毎日精を出して一生懸命やって見て、やっと此所《ここ》まで来たのでありますから、どうも仕方がありません。

 といって日限が来たのですから、そのまま、打っちゃって置くわけには行かない。それに若井氏の心持も分って私もその厚志に感じてやっている仕事であるから、いずれにしろ、御返事をしなければならないが、返事をするとなると、申し訳をするよりほかない。訳を話して日限に間に合わなかったことをいって、以前受け取った手附けの金をお返しするよりほかはないのでありますから、私は考えを決め、二十一年の十二月の大晦日《おおみそか》の晩、手附けの金を懐《ふところ》にし(この金は封を切ったまま手箪笥《てだんす》の抽斗《ひきだし》に入れて手を附けずに置きました。万一間に合い兼ねた時、これがなくなっていては申し訳が立たないから)、荒彫りのまま、チャボを風呂敷に包み、てくてく南鍋町の若井氏の宅を訪ねました。
「その後はどうしました。時に、御願いしてあった鶏は出来ましたか」
というようなことになりました。
 私は、その後の製作の経過を物語り、とうとう日限に
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